京大法学部の三十一人

京都大学法学部教授    道 田 信一郎

15号巻頭言(1983年6月30日発行)

 昭和五十七年度に十五人,昭和五十八年度に十六人,二年間で三十一人の外国学校出身者が,共通一次試験と大学の二次試験なしに,京都大学法学部に入学した.この三十一人は,書類選考と小論文・面接とで入学を認められた.三十一人が卒業したのは,アルゼンチン,オーストラリア,ベルギー,ブラジル,カナダ,フランス,西ドイツ,メキシコ,イギリス,アメリカの現地校や国際学校である.

 この人たちは,お互にファーストネームで呼び合うような点ではなはだ外国風で日本ばなれしているが,物の言い方や言葉づかいなど,かえって最近の一般学生よりもきちんとしていて,はなはだ日本的である.御両親のしつけ・教育のなせるわざであろうか.

 三十一人のなかには,親が外国人である人もいれば,日本国籍とともに外国籍をもつ人もいるし,また,小・中・高校十二年の教育の全部を外国で受けた人もいれば,高校二年と三年の一年だけを外国ですどした人もいて,育った教育的環境はさまざまである。十二年の学校教育の全部を外国で受けた人でも,毎年のように日本に旅行して日本に滞在していた人もいれば,日本に来たことは一度だけだったという人もいる.したがって,三十一人は皆そうめいな人たちなのだが,日本語,特に漢字や単語の知識に,人によって相当の差があった.一般的にいえば,在外期間の長い人はど,また,日本に来る機会の少かった人ほど,日本語(高度の日本語)には苦労があるようである.その苦労は,「先生が黒坂に書かれる字はくずし字なので,解読がむずかしい」ことにはじまるようである.なかには,留学生向けの国語・数学の補習授業に出ていた人もいたが,一年たって教養部での一般教育科目の試験が終ってみると,日本語で苦労している人も,予想以上に善戦健斗したことを示す結果があらわれている.本人の意欲,モチヴェーションのなせるわざであろうか.

 二回生になった十五人は,教養部での一般教育科目のほかに,法学部での法律・政治の専門科目や経済学部での経済料目の授業にも出ている.高度の日本語に苦労がつづいている人には,周囲の一般学生のなかから勉強の手助けをする学生たちも出ていて,外国学校出身学生のなかには一般学生からの受益者もいる.

 だが,他方,一般学生のなかには,外国学校出身学生からの受益者になっている者も少くない.一般学生が外国学校出身学生より習っていることの一つは,容

易に想像されるように,外国語である.外国学校出身学生のなかには,需要が多すぎて,とても注文に応じきれない人もいる.実用的英語力を例にとってみれば,一九八一年改版五刷の「TOEF」試験問題傾向と対策J(語研)収録の日本人受験者 − 日本の大学を卒業してアメリカ留学を目指す人 −一一,四七五人(一九六六 − 七十一年) の平均点が四七〇点で八〇ケ一国中第六十五位であったというデータにくらべると,京大法学部にいる学国学校出身学生の高等学校時代の成積は六七〇点以上,六五〇点以上,六四〇点以上という人が何人もいて,アメリカのテネシー大学の大学生の平均点を上回る水準を示している人も少くない.こうした外国語力の優秀さは,外国学校出身者ならではのものであろうが,京大の学生の外国語教育にはいろいろとよい意味で活力を与えているようである.

 外国語ができるのは外国学校出身者だからあたり前だ,と断定してしまってはいけないだろう.外国人の誰でもが,そこまで言葉ができるわけではないからである.このことは,特に,高校一年までの教育を日本で受けて,外国人ばかりの国際学校に留学してすべての授業を外国語で受けて二年間で国際バカロレア資格を取った学生を考えてみれば明瞭である。留学一年目の外国語での苦労は,経験のない私たちの想像以上のもののようである.それを乗り切って,六科目ないし七科目の試験によい成績をおさめて資格を取ったという事実には,知力・気力・体力のすばらしさが秘められている.

 京大法学部での外国学校出身者の選考について詳しいことは,本年三月三十日発行の大学基準協会の「会報」第四十八号の拙稿「京都大学法学部における外国学校出身者の選考」を御覧いただければ幸である.この新しい選考制度が京大法学部でスタートしたのは,学問は本来国際的なもので大学は開かれたものでなければならないという法学部教官の信念によるものであるが,多くの教官が海外生活で得た見聞もたいへん力になっている.私自身のことでいえば,ハーバード大学ロースクールにまねかれて授業をしに家族ぐるみで渡米したときや,二〇回近く外務事務官併任で国際会議に出たときの見聞が非常に有用であった.

 自然科学の分野で西欧諸国に傑出した学者が多かったことを考えてみれば,法律・政治の分野以外においても,大学入試のあり方についてはもっと検討されてもよいのではないかと思われるが,いかがなものであろうか.世界を見れば,文化はまことに多様で,教育もまことに多様である。