心の国際化を

   東和大学国際教育研究所教授    室     靖

16号巻頭言(1983年11月20日発行)

 両親と一緒に海外で生活する子供たちがかよう学校としては,滞在先の国の学校(いわゆる現地校),国際学校(主として途上国にある),日本人学校の三つがある。このうち日本人学校は日本人の子供(だけ)を収容し,日本人の先生が日本のカリキュラムに従って教えるという意味では,置かれている場所が外国であるという点を除くと,基本的には国内の学校の延長であると考えられる.これに対して現地校か国際校で学ぶ子供たちは,全く異質の教育を受ける。第一学習に使われる言語は日本語でない。級友の多くは外国の子供である。従って子供は大変な苦労をすることになる.しかし,その苦労は,日本国内の学校はいうまでもなく,日本人学校では得ら打ないユニークな経験でもある。そういう海外の経験をしてきた子供は,帰国後更に別の苦労をさせられる。日本語の力が低いだけではない。高度に画一的・没個性的な日本の学校は,彼らにとって「異文化」だからである。日本語が弱いことの方は親にも学校の先生がたにもわかるが,異文化−社会学者はこれを「逆文化ショック」などと呼んでいる− の問題は,親にも先生がたにもなかなか理解してもらえない。

 にもかかわらず,現地校や国際校で学んでくる日本人の子供がもっとふえることを,私はひそかに期待している。そして日本の教育者が,そういう子供たちの人知れぬ悩みについて,もっと理解することを願っている。

 日本の経済は急激な国際化の過程にある。第一,海外に滞在する日本人の家族が今のようにふえたのは,日本経済の国際化が進んだ結果である.これから経済がますます国際化するわが国にとって,何よりも必要なのは,国民の心の国際化である.その点では,海外−特に現地校や国際校−で教育をうける子供たちは,日本にとってきわめて貴重な潜在的な財産である,と私は信じている。

 一方,最近ますますその数が多くなってきた日本人学校の方は,多分に日本社会特有の閉鎖的性格を反映しているように思える.このことは例えば,日本人学校に収容される子供たちが日本人だけであることをみれば明らかである。本来はアメリカ人

の子供のために設けられているアメリカン・スクールが,在日の他の国々の子供や日本人の子供の入学を認めており,教師陣のなかには日本人の教師 (アメリカ人からみれば「現地人」)も入っていることを考えてみると,日本人学校−そしてその背後にある日本社会− の閉鎖性が浮かび上ってくる。全国海外子女教育研究協議会の会員のほとんどは,海外に設けられている日本人学校か補習校で教えられた先生がたであろう。海外で外国人の子供を教えられた方はほとんどおられないはずである。それでも,海外での数ヵ年の教育経験は,日本国内では決して得られなかった貴重なものであったにちがいない。日本とは異質の文化をもつ外国で生活をされていた間に,日本の社会,日本の文化,日本の学校教育を,更めて外から見直されたはずである.一口にいうなら,日本を客観視されたということである。その意味で,「帰国子女」ならぬ「帰国教師」の数がますますふえることは,わが国の学校教育の国際化にとって大へん望ましいことである,と私は思っている。望ましい国際化は,自らの社会−この場合日本の学校−を客観視することから始まると思うからである。

 さて,私が日本人学校についてあえて提案したいのは,次のことである.それは,これからは日本人学校が外国人の子供たちも入学させるようにしてはどうかということである。日本人学校が設けられている国に来ている第三国の家族の子供とはいわないまでも,せめてその国の子供たちぐらいは入学させてはどうであろう.日本の経済力が大きくなってきた現在では −ちょうどアメリカンスクールに子供を入れて英語を身につけさせようとする日本の親たちがいるように −子供に日本語を習得させたいという現地の人もいるであろう.さらに,これからの日本人学校には,せめて一人ぐらい日本へ留学したことのある現地人の教師を加えるようになることを提言したい。現地の教師には,その国の地理や歴史,文化について教えてもらうのである.この二つの提案が受けいれられ,実現するようになれば,日本人学校で学ぶ子供に,国内の学校では得られない国際的な経験を変えることができる,と私は考える。私のささやかな提案が非現実的な夢と笑われる間は,日本人の心の国際化はまだまだ遠いように感じられるのである。