海外帯同子女問題 − 私の経験から

            兼松江商株式会社 社長  鈴 木 英 夫

18号巻頭言(1984年6月30日発行)

最近,海外駐在を希望する社員が段々と減って行く傾向にある。かつては貿易の先兵として,むしろ喜々として任地に赴いたものであった.私自身,始めてニューヨーク駐在を命ぜられた時は,三十七才で八才と三才の二人の男の子の父であった。駐在を命ぜられた瞬間,先ず言い知れぬ歓喜が湧き上ったことを覚えている。その時は,後日持ち上った子供の教育問題など考える遑もない程たゞひたすらに見知らぬ海外駐在に心を奪われていた。

 以来二十五年,社員の考え方も次第に変り,冒頭述べた様な海外駐在を忌避する風潮が生まれて来た。

 この様な社員気風の変化に伴い先ず困惑したのは経営トップと人事部であった。昔の様なスムーズなローテーションが行えないのである。昔なら二つ返事でOKとなったことも,大低の場合,「一度考えさせて頂きます」とか「家内と相談してから御返事させて頂きます」という様な答えが多く,挙句は「色々考えて見ましたが,今回は出来れば見送らせて頂き度く存じます。勝手なことを申し上げて申し訳けありません」ということがしばしばである.この理由の十中八ぐらいは子女の教育問題,あとは健康問題,老人扶養問題等であるが,如何に子女教育問題が家庭の重要問題化しているかわかるのである。確かにマイホーム至上主義が昔と較べものにならぬ程浸透したために,単身赴任で家庭を分散させることを嫌う近来の風潮もあろうがそれ程現在の日本においては,子弟の進学問題が重大問題なのである.

 私の場合は,最初のニューヨーク赴任が昭和三十四年で五年半駐在し,東京オリンピックの年,即ち昭和三十九年に帰国,次ぎは昭和四十三年から四十七年迄,何れもニューヨークで,通算十二年半の長きに亘っている。当然のことながら,この間,子供達は容赦なく成長して行った。

 当時のニューヨークには全日制の日本人学校はなく,一般の公立小学校に通い,土曜の午前中のみの日本人補習校があるのみで,子供達の友達は,トムやフランクといったアメリカ人が殆んどで,子供達の知識の発達は急速に偏っていった。昭和三十四年帰国した時は,長男はアメリカンスクールの小学校六年を卒業,次男は一年を終了した時であった。

帰国した彼等はオリンピック競技で米国国旗が上ると手を叩いて喜ぶような変則日本人に

成長して親を心配させた.しかし吾が家に真のピンチが訪れたのは二回目駐在の時であった。長男は,神明中学から何とか公立荻窪高校に進んだものゝ,慶応大学の入試にはマンマと失敗を余儀なくさせられた.次男はアメリカの中学二年で帰国させ,桐朋中学に編入

させて頂いたが,教程に追いつくのにはかなり無理があり,たまに一時帰国する私達両親に泣きながら「お父さん達は僕達を犠牲にしてもいいのか」と訴えるのを聞くのは辛かった。私の主義として,帰国後の編入も学年を落さず,無理でも子供に我慢を強いさせたのであるが,家庭教師をつけて補強をしても,追いつくのは並大低ではなかったらしい。しかし幸いにも長男は一浪後慶応大学へ,また次男もストレートで同じく慶応に入学することが出来た.

 現在上は広告会社博報堂に,下は東京海上火災保険会社に夫々入社し,英語が彼等の一つの武器となって重宝がられているようである。一応先ずは目出度しということになったが,吾家の例はむしろラッキーな例かも知れない。

 近時,海外の日本人学校が急速に整備され,旦つ亦,日本における帰国子女の受け入れ態勢が非常に改善されていると聞いているが,それにも拘らず海外赴任を躊躇する人々が多いということは,とりもなおさず現在の日本の教育制度に問題ありと帰結されるものと考える.

 戦後経済大国として,戦争のマイナスを補って余りあるようになり得たのも,偏えにわれわれ日本人の教育熱にあずかって大きかった.またこの繁栄を続けるためには勤勉でなければならぬ資源小国の宿命がある。自己向上意欲はそのま〜進学熱に,そして激烈な受験競争となって行くのである。

 政府は現在「臨時教育審議会」を発足させ教育改革に本気になって取りかかろうとしている。私はここで「臨教審」の問題を論ずる程専門知識も持たず,旦亦紙数もないが,ただ一つ海外子女問題の解決は,海外教育施設の拡充とか,国内の帰国子女受け入れの改善だけでは為し得ぬ基本的問題があることだけを訴えて此の稿を閉じる。