地方の国際化と帰国教師の役割

             岡山県国際理解教育研究会会長  三 宅 正 勝

19号巻頭言(1984年11月10日発行)

 従来,国際交流とか国際社会という言葉には,都会的で華やかな印象がつきまとっていた。実際「国際」と銘打ってのプログラムには,大都市中心のものが多かった。しかし,一九八〇年代に入ってからは,地方における国際化・国際交流が活発になってきている。

 ところで岡山県は果物のほかに,畳表の生産地として有名である。ところがその原材料であるイ草が「ワガ国ニモ沢山ハエテイルヨ」という情報がもたらされた。この情報提供者は,なんとケニアからの留学生。これを契機に,二か国間に貿易振興と技術提携の話が進展する。

 また,ダイエット食品として,切り干し大根や,トコロテンを大量に輪出している異色の会社Fが,県下にある。

 一方,抗ガン剤の一種インターフェロンの開発により,一躍世界の耳目を集め海外からの視察が引きも切らぬ,H研究所が異彩を放っている。しかし,岡山という地方都市と世界とのかかわりは,いわば商業ベースに終始している訳ではない。心の交流も盛んなのである。

 N女子大学では毎年,学生ボランティアをマレーシアの病院に派達しており,障害児教育面で名声の高いA学園では,アセアン諸国や中南米からの留学生が研修に励んでいる。さらにユニークな国際プロジェクトが最近挙行され話題を呼んだ。ギリシャのM市と姉妹縁組をしている瀬戸内のU町で「国際芸術祭」が開催されたのである。それは地方においては日本で初めての快挙であったという。

 このような状況に基づいて,市町村の文化センターや公民館では「国際理解講座」を開設し「世界の中の日本,そして岡山」を考える機会が増えている。

 このような,急速に進展する地方の国際化に対処するために,県は一九八四年「国際交流プラザ」を新設。こうして経済・文化・教育面に・おいて,国際活動を助成する気運が高まっている。この「プラザ」が,ボランティア通訳を募集したところ,英・独・仏・西・中国語等百五十名を越す人材が登録された。これほ一地方都市の現象としては驚きであった。

 さて,こうした国際化の波の中にあって,私達地方における帰国教師はいかに対処しているかを記してみよう。

 私自身は岡山県の派遣教員第一号として,西ドイツで勤務させて頂いたが,帰国後の教師の状況は,海外

経験を自己の領域に閉じ込めている者が多かった。貴重で豊富な体験が普遍化されることもなく,埋没されそうな状態であったのである。

 そこで県教委と有志の協力を得て「教師の会」を結成し「海外経験を生かす試み」を摸索した。帰国子女および出国子女や派遣教員の世話はもとより,関係機関に「人材バンク」として登録,各種の国際関係の集いに,帰国教師を派遣している.

 また,会員は国際理解教育を進めるための学習を,参観日に行うなど,地域と世界との結びつきについて親子が共に考えられるよう工夫した。

 会員の中には,海外で習得した言語に磨きをかけるため,語学講座に精を出す者も多く,ボランティア通訳やホームステイを積極的に引き受ける者もいる。

 さらに一九八三年,会の結成二年目に至って,研究論文やエッセイを中心にした機関誌「国際理解」を発行,県内外をはじめ海外にも配布するなど好評を得ている。

 現在,帰国子女の八割は大都市に集中しており,それらの地域では「フレンズ」「かけはし」など,帰国子女の親の会が発足して活動を開始しているが,岡山でも数こそ少ないが,先きどろ「帰国子女の会・ももたろう」が産声をあげている。これも地方都市では珍しいとのことであるが,今後各地で同様の会が誕生することであろう。

 私達は,この「ももたろう」と協調を深めながら国際理解のための活動に着手したところである。私は,以上述べてきたようなことほ,海外経験をさせて頂いた教師の一人一人が自覚して,帰国後に当然なすべき任務であると考えている。 今日においては,子女を同伴した外国人が,日本の,それも岡山のような地方都市に居住するケースが増えていることにも目を向けなくてはならない。そこで私達は従来の「海外子女教育・帰国子女教育」を,中国からの帰国子女やベトナム難民の子供達をも含めた,グローバルな視野で考えてみたいものである.

 私は,国際理解教育というものは,今後日本の教育界で最も重要な位置を占める課題であると信じている。なぜなら,教育の最終の目標は,一言にしてまとめるならば,何人とでも温かいコミュニケーションが出来て,お互いが,よい人間関係を保つことにほかならないと思うからである。 (元デュッセルドルフ日本人学校教諭)