海外子女教育について

臨教審第二次答申に関連して

                       京都大学教授 小 林 哲 也

24号巻頭言(1986年6月30日発行)

 海外で子どもを育てる際に,子どもを日本人学校に通わせるべきか,それとも現地の公私立学校または国際学校に入れ,場合によってはさらに補習授業校に通わせるのがよいのかという問題は,現実にはその土地でどういう教育の機会が与えられるかによって決まるとはいえ,恐らく海外に家族ぐるみ住む両親たちのすべてが,少くとも一度は頭を悩ませる問題である。これは基本的には,子どもの教育をどう考えるかという両親の教育観や,あるいは海外で生活することをどう見るかという両親の人生観に関わることであって,どちらが正しいとか,正しくないと一律に言いきれないところに,この間題の難しさがある。

 したがって,この間題についてはこれまでもいろいろな人びとによって論じられてきたし,また今後も続けられてゆくことであろう.しかし個々の両親にとっては,そうした論議にもかかわらず,究極的には自分たちの教育観や人生観にしたがって,その子どもにとってもっともよいと思われるものを選択し,決定しなければならない問題である.

 このような両親の選択による海外子女教育という観点から見ると,国やその他の公共機関の役割は,そうした異った両親の選択に対してそれぞれ適切な配慮をするところにあるのであり,事実,これまでの日本人学校や補習授業佼,通信教育,あるいは帰国子女のいろいろな受入れ体制は,そうした線に沿って整えられてきたとみることができる。

 その点からいうと,去る四月に発表された臨時教育審議会の第二次答申は,これまでの線を一歩踏み出して,いわゆる現地主義らしいものを打ち出した点で注目に価する。この臨教審答申は,海外子女・帰国子女教育を,その問題の緊急牲と波及的効果からみて優先的に取り上げるべきものとしたが,その提案の説明において,「例えば現地校に通うことなど可能な限り現地で得られる経験を積むことを重視する」と述べている.

 筆者も個人的にはこの考えに賛成であり,またそうした考えで自分の子どもも育ててきた.しかし,先に述べたように,海外でどのように子どもを育てるかは基本的に両親が選択,決定すべきことであり,国や公共的機関の役割はそうした異った両親の要

求に応えるところにあるという観点から,国の政策にかかわる機関が一つの考え方を打ち出すことには大きな疑問を持つものである.臨教審としては,先述のような,現地主義を含めた異った考え方の論拠やそれらの得失を整理し,それらに対応する国や公共機関の役割と責任を明確にすることにとどまるべきではなかったかと考える。

 とくにこの国の役割・責任ということについていえば,この答申において現地主義だけを打ち出しておき,それについての行政の責任や役割について一言も触れていないのは,いかにも片手落ちであり,外国の教育へのただ乗りといわれても仕方ないのではないか。その見返りとして日本の学校を外国人に開くことをこの答申は提案しており,それはそれとして重要であるが,現在の海外,とくにアメリカにおける情況はその程度ではすまないところにまできているのである。

 少し前に,ニュー∃ークに勤務している知人から次のような手紙をもらった。彼の二人の子どもは地元の公立学校に世話になっているが,そこでは日・英両語の使える教師を雇ってくれ,おかげで日本人の子どもたちは大きな問題もなく,学校生活を楽しんでいる。ところが財政難のため今後こうした教師が雇えなくなるとのこと.すでにニューヨークには四千人以上の日本人の子どもがおり,そのうちの日本人学校通学者四五〇人を除いた大多数が地元の公立学校に世話になっており,その数もますます増える傾向がある折,このまますっかりアメリカ側にまかせ切りにしていてよいであろうか。少くとも日・英両語教師ぐらい,日本側で供給できないであろうか。

 こうした情況に対しては,日本政府が直ちに協力できるのか,これは民間団体のやることなのか,地元の日本人がまず何かすべきか,それとも日本人学校や,国際的日本人学校をもっとつくるべきなのか,いろいろ詰めてみるべき問題はある.そしてこうした点こそ臨教審で検討して欲しいし,またそうした論議がもっと広く多くの人びとによってなされることを期待するものである.その場合,それが単に「教育摩擦」を避けるためといった功利的な観点からでなく,われわれの子どもの教育を引受けてくれる地元への感謝の表れという視点に立つことが大事であることを,最後に強調しておきた。