海外子女教育の深化と体系化

 中央学院大学商学部長・国際経営研究センター長  斎 藤 祥 男

25号巻頭言(1986年12月20日発行)

 日本企業の国際化を研究するにあたって,前面に立ちはだかって登場したのが日本人駐在員の子女教育の対応であったというのが,私の海外子女教育問題との出合いである。実態を知らずして語れない大問題だけに,三〜四年をかけて集中的に,アジア,北米(カナダ・アメリカ),中米,欧州(東欧以外の全域)の百以上の諸都市を廻り,各地の日本人学校を訪問して,現地の先生がたやど父兄,ならびに関連機関の人々からお教えを頂いた。それらのl部については,雑誌や講演会などを通じて紹介したり,学術書に私見を述べてきたが,今回本誌に執筆の機会が与えられたので,以下の集約を試みたいと思う。

 (1),海外子女は企業の国際経営にとって,アキレス腱的意味をもつのか,また,海外子女は私企業による利益追求の被害者なのかという問題である。この点については既に多くが論じられてきたが,日本経済が国際的に大きな比重をもち,その経済活動が国際レベルで拡大され,多数の企業が海外で活動せざるを得なくなっている現状から,国家も企業も前向きに海外子女・帰国子女の問題に取組まざるを得なくなったのは事実である。海外進出を余儀なくされている企業こそ,派遣者の費用コストとしてのみ把えるのではなく,海外子女の教育を,日本企業が国際社会で受け容れられる次世代の人間を育成する責務として把え,教育費用のみでなく,企業内のシステムの上で位置づけることが望まれる。

 (2),海外赴任の父母が自分達の子女をどのように教育するかの決定は,種々の選択があるわけで,子女の年令により残留か同伴かつまた,同伴の場合に現地校か日本人学校での教育とするか,あるいはまた,初等・中等教育と高校・大学教育では選択肢はさらに多くなってくる。もちろん赴任する現地事情は最大の要因であるこ上は論じるまでもない。

 問題は,両親の人生観や教育観が確立され,どこまで子供の将来に向けて責任をもって対応するかである。学校まかせの教育を排し,子供と共に国際社会で成長して行く理念をどのように形成するかである。幸いに,海外での子育ては,親育ての面があり,異質の生活環境は親子一体教育の促進に役立つ。親が海外での子女教育を通じて,日本の教育を考え,よりよい教育システムへ目を向ける好機ともなる。

 最近では帰国子女の進路・進学の調査研究が発表され,海外体験をもった子女の社会対応の実態や,就職

先での適応も一部にせよ調査され,海外教育に当面する両親にとって判断資料が得られるようになってきた。これは大変に好ましいことである。さらにこれらの研究が深化し,体系化されることを願って止まない。

 (3),海外派遣教員の先生がたは,不自由な教育環境や不足不備の教育資材に悩まされながら,身の細る想いの中で現地教育に専念されているわけであるが,一面において教育の国際化に対応する上での中核的な人材として期待されている。海外派遣中は最前線の在外教育施設で教育を実践し,現地社会からの視線と批判を受けつつ,しかもあるべき教育を追求し,示さなければならない責任を担っている。さらに帰国後は,海外体験や実績が日本の教育を国際化して行くうえで貴重なものとして評価され,国際理解教育への取り組みが当然のことと考えられている。まことにど負担の多いことである。

 この点で,帰国後の教員組織として全国海外子女教育研究協議会の活動は重要な役割をもっているし,同会は新らたに海外赴任を志す後継の教員への指導的諮問機関として,先駆的使命をもつことになる。望むらくば,人々が気軽に口にする「国際人」という言葉に対し,本質的で達成可能な定義付けをし,アイデンティティを与えていただきたいと思う。現地にいる教師さへこの言葉に責任をもった解答が与えられずしては,真に国際人教育はあり得ないからである。

 (4)義務教育年限に対応した海外・帰国子女教育が充実されるのに比較して,高校・大学レベルの対応が遅れていることは周知のとおりである。これは,lつには義務教育を終えた自由選択の教育課程にあることにもよるが,高校が準義務教育レベルに近く評価され,大学が専門教養教育とまで評されているわが国にあって,より積極的な対応があって然るべきと思われる。この遅滞の一原因は,これら教育機関の広域研究組織が形成されていないという認識の低さにある。

 確かに異文化接触などを研究する個々人の学者はいても,子女教育の立場から教育機関として共同し,相互に啓発し,研究を深化して実践活動に触れようとする統合された組織はない。全国海外子女教育研究脇議会がこれらの教育機関の教師を引き入れ,より精緻な方法論で研究を深化しっつ,海外子女教育の体系化を進められたなら,素晴しい前進と思うのだが,いかがなものだろうか。