大 陸 育 ち

岩波ホール総支配人   高 野 悦 子

26号巻頭言(1987年2月1日発行)

 私は一九二九年五月、旧満洲(現・中国東北地方)の大石橋で生まれた。父が満鉄のエンジニアだったから鉄道敷設にともなう転勤が多く私たち家族も大連撫順奉天(現・瀋陽)、ハルビン、また大連と移り住んだ。 父がヨーロッパに旅行中、母の病気治療のため二年間熱海に住んだことがある。私はここで尋常小学校一年生になった。しかし父が帰国するとすぐに大連に戻り嶺前小学校に転校三年生のときにまた奉天の平安小学校に転校した。
 満鉄は当時の日本最大の国策会社だった。広大な満州の鉄道港湾炭鉱森林などを配下におさめ自ら病院学校の経営を行った。その莫大な資金を活用して大学や師範を出たての若い優秀な教員を集め小学校といえども設備の整った立派な校舎広々とした校庭でえりぬきの教育を実践した。
 いずれの小学校も日本に準じた教科書を使い私は「サイタ サイタ サクラガサイタ」をまず学んだ。多分日本と違っていたのは小学校の高学年から正課に中国語があったことだけであろう。
 日本人小学校だったからクラスに中国人はいなかった。だが家に帰れば近所の中国人朝鮮人の子どもたちと遊んだ。ハルビンに住んでいた頃の遊び仲間はイギリスドイツイタリア白系ロシア人とその国号は実にバラエティにとんでいた。
 クラスメイトはほとんどが満鉄社員の子弟で生活程度も似ていたし両親の学歴も共通していた。大陸らしい大らかな空気がみなぎり私たちは勉強も一生懸命にしたが今では遊んだことばかりが思い出される。
 スポーツが盛んで夏はプールで水泳、冬は広いグラウンドがスケートリンクになり零下二十度三十度にもめげずスケートに励んだ。私の顔は前か後ろかわからないくらい陽に焼けていた。
 全員が女学校に進み私は家の近くの奉天朝日高等女学校に入学した。これは小学校よりさらに立派な学校だった。ここで四年間学び約八割が日本の上級学校に進学する。私の長姉も東京の日本女子大に進んで行った。
 敗戦の年の五月私は父の郷里の富山県に疎開し県立魚津高等女学校の四年生に編入した。ここでも私はのびのびと楽しい女学校生活を送った。

 八月十五日、敗戦になると私たちは動員先の軍需工場から解放され、通常の学生生活が始まった。音楽会、学芸会、スポーツ大会が華やかに行われ、私はピアノを弾いたり、ダンスを披露したりした。
 特にスポーツが得意だった私は、県大会のバレーボールの試合では準優勝旗を、バスケットポールでは優勝旗を学校にもち帰った。これは開校以来の出来事と、校長先生が狂喜して私たちを迎えてくださった。
 転校生というハンディキャップを、音楽やスポーツがうめてくれて、私は新しい環境にすんなりとけこんで行けたのかもしれない。富山の冬は雪が深い。往復十二キロの道程を私は通学しきれず、寮生となった。夜になると、同じ部屋の八人の下級生が私をとりかこみ、満洲の話を興味深げにきいてくれた。
 後年、私が二十九歳にもなって、フランス語が全然できないのにパリの映画大学に留学したことを、勇気ある行為とほめてくれる人がいた。しかし、私にとって日本で映画監督の修業が、”女性”というだけの理由でできないのなら、女性にも門戸が開かれているパリに行こうという発想は、それほど勇気を必要とするものではなかった。両親も私の希望を簡単に受け入れてくれた。 若い頃、新天地に夢を求めて大陸に渡った私の両親は、五十歳で地位、名誉、財産を失い、戦後の日本で裸一貫の再出発をした。そんな親の背中をみながら私は育った。”満洲育ち”の人々が、一様に大陸的といわれるのは、どこまでも広がる平野の彼方に沈む真赤な太陽を眺めるのぴやかな自然と、進取の気性にとむ親の影響によるものであろう。一九六八年、岩波ホールの総支配人に就任したとき、私は企画の方針を、半分は日本の大地に根をおろしたもの、そしてそれを基盤に、あとの半分は国際的な視野に立つものと決めた。これが岩波ホールの今日につながったと思う。 中国で生まれ、フランスで学んだ日本人という経歴を、私は大切にしたいと考えている。事実、その経歴が今の私を支えてくれている。これは私自身の努力というよりも、両親のおかげといえよう。あらためて父と母に感謝する次第である。