大学での帰国子女

筑波大学教授  黒 羽 亮 ー

33号巻頭言(1989年7月20日発行)

日本の教育は画一的なため,それを経た者は個性に乏しくなる,またマルチョイ式入試の準備のため思考力を喪失しつつあるとよく言われる.理念としては分かるが,海外で教育を受けた者と比較すると具体的に明らかになる。以下は,昨年秋の私の経験である。一年次の百三十人を対象に近代教育史の授業をしたが,外国出張で三回ほど休講したので,補講代わりに課題を提出した。一九四六年三月の米国教育視察団報告書の高等教育に関する章をA四版の両面コピーに複写したら六貢(三枚)になった。量が多いが,@全訳でも抄訳でもよい,コメントでもよい,G両方あればなおよい,C薦めるわけではないが,全訳も出版されており,それを探すのを妨げようもあるまい,G締切は休講明けの授業日で,評価の参考にするという条件で学生に渡した。

 その結果を報告すると第一は全訳が約六割と極端に多かったことである。それも苦労して一人で訳したとみられる答案は極めて少なく,何人かで手分けして訳した全訳文を写したものか,また翻訳書を写したものが大半だった。英語専攻でない一年次の語学力ではちょっと重い課題だし,訳文は四音字詰め原稿用紙で三〇枚弱になる。たとえ翻訳の丸写しでも,それだけの手間をかければ相当のアルバイトであり,生涯その作業を忘れないことだろうから,ちょっと甘いかもしれないが合格点はあげることにした.ただ,少しでも訳をわざと間違えて「如何にも一人で訳したように見せよう」などと才覚を働かせた答案は少なく,現代学生は正直なものと,妙なところを感心した。

 第二は,抄訳・部分訳,感想記述は極めて少なくて,思考力の欠如を立証していた点である。そこで,レポートに翻訳作業の片鱗が見えず,感想も短く陳腐なものは別だが,この作業をした者には,いい点をつけた.使節団報告の全文は一三の項目に分かれている。このうち過半数の項目から各一段落ほどを抜き出し,その英文と訳を書き,さらにそれについての現在の高等教育の状況や感想を述べたといったような,大変気の効いたレポートがどく僅かながら存在した。英語の誤訳が若干あり,最終感想は原文の最終箇所についてあったりで,完全な手仕事と見えた。

発表方法については指導しなかったのに,理想的答案に出会ったわけで感心したが,それらは九月編入学の帰国学生だった。小学校のころからレポートを書かされたり,口頭発表をしばしばさせられるなど,プレゼンティションを重視する欧米の教育の成果といえよう。それと日本の一般的な学生との対象について考えさせられることが多かった。

 大学教育や,最近は面接を重視する就職試験になると,帰国子女にはこのように強味を発揮する機会が多い。だが,高校以下の教育では個性が豊かなばかりに目立ち,一般生徒から孤立して,極端な場合には「いじめ」の対象になる。そうならないように,先生が注意すべきなのだが,特別の先生を除いて,これも日本の風土に育ち,普通の日本の学校で職歴を重ねているものだから,この点の気配りが十分でない。もちろん,すべての小・中・高校の先生がこの点に思いを致すべきであろう。

 しかし,帰国子女の数は限られており,また,すべての学校に欧米流を取り入れるというのも無理な話だし,日本流にはそれなりの合理性もある。そこで,東京圏,京阪神圏などの限られた地域で十校か二十校に一校ぐらい帰国者の多い学校を公立で作って,そういうところにひとまずソフト・ランディングさせて,順次日本に馴らすなり,また海外に行けるようにしたらどうかというのが,さきの臨教審での新国際学校の発想だった.こういう学校ならば,内本語の出来ない外国人子女を受け入れるという,もう一つの便利さもあろうということだった。大都会の旧市街地では,居住人口減少で小学校を統廃合しなければならないところばかりである。そういうところを使うことにすれば,施設の心配はない。先生も若い世代では,外国をよく知り,言葉のできる先生が増えており,こういう学校は行政がその気になれば,開設は簡単なのではなかろうか。問題は行政がなかなか腰をあげないところにある。

 また,大学の帰国子女特別入学の枠は近年増えている割にアプライする人が少なく,空いている。父母や生徒にすれば特定の有名大学でないとという気持ちなのだろうが,海外の高校相当校で,伸び伸び教育したことの生涯にわたるメリットは大きいことも考えて頂きたいと思う。