地方自治と国際交流

宮城県田尻町長  峯 浦 耘 蔵

34号巻頭言(1990年1月1日発行)

 東ドイツがベルリンの壁を自由に解放するニュースが十一月十日報導された。一九六一年の封鎖以来,壁をへだてて,自由を求めるドラマが続き,世界の緊張の接点でもあった。

 ベルリン封鎖の年は西ドイツの農業実習を終えて帰ったばかりの出来事であった。一年余の実習中に多くのドイツ人と交流できたが,東も,西も同じドイツ民族である話しは常識であった。 農村を支える農業協同組合のなかに,東ドイツの農民持分の出資金貯金がそのまま口座にまとめて資産管理されていた。もうその人は亡くなったことでしょうが遺族の誰かがそれを手にするときを思うと,民族の誇りにもなり,農業協同組合という農民組織の誇りともなることです。そして農民の心は次の世代にも伝わることになる。

 もう一つの分断は韓国である。もっとも近い隣りの国が,遠い国であった。その日本の近い国,韓国と,五年前から町の高校生と,韓国の高校生と相互交流をつづけて五年目を迎えた。

 日本から訪問したとき,言葉が通じないので,ホームスティーは望まなかったが,韓国側はそれを世話して下さった。日本語のわからない韓国高校生,韓国語のわからない日本の高校生のホームスティが実現したのである。それは高校生を持つ親たちの寛大さである。子供同志は英語で通じあえたのである。

 相互訪問を期待してお迎えしようとしたら韓国の当時,社会は,兵役の義務が終えなければ出国は許されないことがわかった。交渉を重ねている問に,国や地方自治体が招待するのは許可が得られることがわかった。早速田尻町として招待し,お迎えすることができた。

 国際交流にあたって地方自治体が,交渉権があったことに,悦んだひとときである。

 しかしはじめて韓国高校生を田尻に迎えたとき,日暮れであったが,眼を輝かして,おそろしい国にでも来たような緊張した姿が,今も眼に焼きついている。 追いつけ,追い抜けと国民を励まし,占領時代のいまわしい数々を教えられて育った思春期なのでもある。しかし,僅か二〜三日の滞在であるが,涙を流して別れる光景は,青少年交流のもっとも貴重な体験ともなった。

 若い程よい,国際交流は,帰国子女のみなさんがもっともよい身を持って体験された方々でもある。

 日本の海外旅行は,毎年増加して一千万人が出国するところまできた。本当にすばらしいことであるが,反面それが交流に結びついているか疑問でもある。

 もっともっと国民のカで,一人一人の交流ができるよう公共の役割も大きい。地方自治体がこの人々への協力は大事であり,国際交流が自主的に行われるように運動を引き起こす機能は大きい。その柱に青少年の相互交流が望まれる選択である。

 またこれからの国際交流は,訪問だけでなく,入国にもあらたに起こる。移民労働者の受け入れが大きく動き出して来る。EC共同体は今九百万人の労働者の処遇に悩んでいる。

 はじめは労働力を求めた移民労働であるが次第に長期に亘り,30年余のEC共同体では子供の時代となり,母国語も知らない移民労働者で,帰国もできないのである。

 ヨーロッパ共同体は一九九二年を目標に,人も物も金も自由な国境のない国に変ってゆくとき,この移民労働者の居住権,医療,福祉,教育などくらしに結びつく諸条件が生れるのである。

 費用の負担は別として,そこに住む以上は地方自治体の一員としてつき合い,励まし合いが求められ,地域の人々との共存が条件となってゆく。

 日本は移民労働者の受けいれが急速に加速しているが,積極的に受けいれを求める企業側と,住民として共存をあずかる地方自治体とはもっとも大切な,あたらしい国際化である。

 この新しい,両面の国際化を乗り越えねばならない壁は,単一民族としてくらしつづけ,村という習慣への調和でもある。その国際社会化への道は,地方自治体が自らあゆまねばならない選択の道でもある。

 進んで海外にも派遣して,国際理解を深める人材が育たなければならないし,やがて来る,移民労働にも,協調しなければならない。

 しかしそれは,待ったなしの課題であり,そのひろがりは広範に亘り,やがて人,金,物の自由な流れの時代へと進んでゆくことである。

 地方自治と国際化についてひとつは国際社会人を育てることである。

 まず子育てからはじめなければならないのである。この子育ては夫々民族の誇りをかけて,将来につなげなければならない。