パキスタンからやってきた『ガキ大将』

 日吉台幼稚園長 佐  藤  敏  巳

37号巻頭言(1990年12月1日発行)

 「アディル!アディル!・・・・・。」遊びの時に聞こえてきた子どもたちの大きな叫び声が,今は聞こえない。

 私がアディル君と出会ったのは,この四月。パキスタン航空に勤める父をもつ元気な五才児。家族四人で本園の近くに住んでいる。パキスタンから日本に来て二年目・・・日本語はほとんどしゃべれない。

 いつも真黒になって園庭をとびまわっているアディル君は,言葉が通じないためか,友だちについ手が出てしまう。砂場で遊んでいる友だちの中に,わざととびこんでいってぶちこわすことも・・・「何するんだよ。アディル!。」と,園庭で追いかけっこが始まる。いつの間にかアディル君の後には,子どもたちの長い列が・・・・・。でも,なんだかみんな楽しそうな目をしている。いちばん楽しそうなのは,アディル君の目かな・・・・・。しばらくすると,アディル君は,私の前に来て,「う−ん,う−ん・・・・・。」と,友だちを指して,何かを言いつける。私が答えようとしているうちに,また,友だちのところへとんでいく。すると,今度は,「園長先生!アディル君がぼくをなぐったよ。」と,いれかわりたちかわり登場する。

 こんなアディル君がもういない。この夏休みに突然パキスタンに・・・・・。今は小学校に通っているらしい。「アディル,アディル!。」もう園庭からは聞こえてこない。ちょっぴり迫力のなくなった園庭遊びである。それにしても,どうしてなんだろう。あんなに人気があったのは・・・・。年長児だけでなく,年中・少児にもとても人気が・・・・・。

 ちょっとまてよ。確かにいたような気がする・・・・・いや,確かにいたよ。私が子どもの頃,アディル君のような日本人の子が・・・・・。いじめっこなんだけど,人気があり,どういうわけか,その子を中心に遊びが進んでいく。年令がちがっていてもみんなに人気のある,いわゆる「ガキ大将」・・・・・こんな子が,今は少ない。悪いことにも,良いことにも,いつも名前が出てくる。そして,どちらかといえば,大人にしかられやすい子・・・こんなすばらしい他人」が,昔は,たくさんいたように思えるが,今は,本当に少なくなった。

 年令にこだわらない遊びの中で,この「すばらしい他人」とお互いにかかわりあって,ルールを知り,自分の考えや気持ちを確かめあっていたのかもしれない。泣いたり,笑ったり,怒ったりの小さな社会も,いつの間にかできていたようである。

 でも,今は,このようなかかわりあいが少なく,小さな社会も誕生しにくい。だれでも,「ガキ大将」になれる素質をもっているのに,体のどこかに隠れてしまっているのかもしれない。アディル君は,言葉がすぐに出ないかわりに,体ごと『すばらしい他人』とかかわりあって,あっという間に隠れていたこの素質を刺激してくれたのかもしれない。だから,あんなに楽しそうな目で・・・・・。きっとアディル君の人気の秘密かもしれない。

 アデイル君という小さなかたつむり・・・・・に出会う前,私は十四年間,小学校の子どもたちとかかわりあってきた。十五年前,初めて出会った三十二人の三年生を「小さなかたつむり」と呼んだ。その時は,「かたつむりは,立ち止まることはあっても,決して後ずさりはしない。常に前進のみである。】こんな歩き方をしてほしい・・・・・だから,小さなかたつむりだった。

 でも,小学生と何年聞かかかわりあっている間に,「後ずさり」という言葉の後に,「のっそり,のっそり」という言葉が増えた。塾,中学受験・・・・・なんだかみんなが先走っているように見えた。どうしてそんなにつめこむんだよ。もっとゆっくりでもいいじゃないか・・・・・。そんな願いからである。

 そして,今,アディル君と出会って,「よそ見やより道をしながら』という言葉が増えそうである。君たちのまわりには,アディル君のような「すばらしい他人しがたくさんいるんだから・・・・よそ見やより道を今のうちにたくさんして,本当に他人とかかわりあってほしい。養っと,「すばらしい他人」だけでなくて「すばらしい自分」にも気づくかもしれない。

 アディル君のいない園庭を見ているとさかんに「う−ん,う−ん。」と言っていたアディル君の目がうかんでくる。もしかすると,「ガキ大将Jという言葉といっしょに,何かとっても大切なものを忘れかけているのかもしれない。アディル君は,そのことを私に伝えようとしていたのかもしれない………。

 最後に,大きなかたつむりの一人言・・・・・私たち大人のかたつむりも,よそ見やより道をしながら,のっそり,のっそり歩かねば・・・・・。そして,小さなかたつむりと同じ目を持った大人のかたつむりに・・・・・そういう目で話ができたら,,きっと・・・・・・。