国際理解教育の基本理念を問い続けよう −流行で終わらせないために − 広島大学教授 江淵 一公 |
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38号巻頭言(1991年2月28日発行) | ||
最近,教育界では国際理解教育への関心が非常に高まっている。諸国間の相互理解こそは人類の平和的共存と繁栄の基本的条件であることが強く認識されるようになってきたことの現れであろう。しかし,国際理解教育に関する実践研究の現状については,やや心配な点がある。それは,理念論議抜きの方法論議が支配し,そもそも国際理解教育がなぜ必要なのか,それは何をねらうものなのか,そのねらいを達成するために何を取り上げなければならないのか,といったことについての論議が少ないことである。目的はもはや”自明の理”であるかのどとく扱われている。私はそこに一抹の不安を感じる。というのも,国僚理解教育の理念や目的はけっして″自明"ではないからである。 国際理解教育を重要な柱の一つとしている新しい教育課程は,各教科における国際理解教育の教材の扱い方を各所で示唆してはいるが,そもそも国際理解教育は何をめざしているのかという根本的な哲学までは述べていない。今日の最大の課題であるグローバリズム(″人類益″をめざす地球市民会議)とナショナリズム("国益"を重視する民族主義)との緊張関係をどう捉えるかも明かではない。そうしたことに関わる論究は先生たちにお任せします,といっているかのような印象である。教育という目的的活動は明確な目的・理念なしには成り立たない。国際理解教育の実践に先だって,その根本理念についての職員の共通認識を深める論議を行っておかなければ,適切な教材選択の基準を確立することもできないだろう。国際理解教育を単に″流行のテーマ”として追うのではなく,真に有意義な教育活動にしたいと思うのであるならば,こうした理念論議を欠くことはできないはずである。 ここで,理念論をくわしく展開する余裕はないが,ただそれを検討するに際して忘れてはならない視点(基本原則)を示唆しておきたい。(1)人間は「文化」によって,これが同じ人間かと思うほど,ものの見方,考え方,行動の仕方が異なる場合があることを認識させることである(相対主義の視点)。これは一般に,慣習や価値観の対立となって現れる。鯨を食べない民族と鯨を食べる民族との捕鯨をめぐる深刻な対立はその例である。 |
(2)しかし,それにもかかわらず,人類は文化の差異を超えて理解しあおうと努力し,また手を結びあうことのできる共通性,普遍性を備えているという側面に十分注目させることである(普遍主義の視点)。この人問の特性が次の第三点を可能にしてきた。 (3)今日の私たちの豊かな生活は,先人の努力に負うだけでなく,異なる文化をもつ民族との交流の上に築かれていることを認識させることである(互恵主義・文化交流の視点)。この点は,私たちの日常生活でありふれた必需品になっているいろいろな物品や技術の発祥地を知るだけでもたやすく理解できる。思いつくままに例を上げれば,ベッドは中近東,ガラスは古代エジプト,木綿や鋼はインド,ゴムは中央アメリカインデイアン,傘は東南アジア,絹や焼き物や箸は中国,椅子は南欧,フォークは中世イタリア,スプーンはローマが起源である。私たちがどれだけ「異民族」の恩恵をこうむっているかが,この例をみただけでもよくわかる。こうしたことを知ることは,今日一般化している先進国・途上国という二分法につきまとう優劣の観念の滑稽さを知り,それを払拭する上でも有効なはずである。 こうした視点から,具体的な教材を,できれば身近な国を対象にして選びたい。私からの”おすすめ教材”は韓国を取り上げることである。日本人が国際化を唱え国際交流を説くとき,無意識的に描いている「外国人」のイメージは,おうおうにして「青い目をした西洋人」である(つまり,同じ西洋人でも「黒人」は含まれない!)。現実に日本人が接触し交流する機会の多い外国人はアジアの人々であるにもかかわらず,地方自治体の姉妹都市交流では,交流すべき相手として「非西洋」諸国の都市は二次的にしか扱われないことが多い。それらの諸国をもアメリカやドイツ,フランスなどと並ぶ,対等の国とみる態度が育ったとき,日本の国際理解教育ははじめて一歩進んだといえるのではなかろうか。韓国に関する国際理解教育の前進は,その成否を示すバロメータといってもよい。 福岡県の太宰府市では,大人も子どもも巻き込んだ地域ぐるみの韓国との相互交流が盛んになっているが,それを背景にして太宰府西小学校では,韓国の学校と交流し,友情を育む活動を推進している。この全国でもまれな試みを私は大きな関心と期待をもって見守っている。 |