開かれた教育を

 東京大学総長 有 馬 朗 人

40号巻頭言(1991年12月10日発行)

 帰国子女のかっての親として,また私自身の留学の体験から,海外帰国子女問題に強い関心を持ち,憂いている者の一人である。この帰国子女の抱えている問題と,日本にいる留学生の問題とは,教育のあり方等において共通の結びつきがあると考えている。

 二,三十年前,日本の若い研究者があいついで海を渡って行った。留学先の欧米の国々では,差別なく暖かく迎え入れてくれたものである。今日のわが国の国力が,そのような先進国の開かれた教育に負うところが多いといえるのではなかろうか。それらの国々にどうお返しするか,いまその時がきていると思う。わが国が留学生を大勢受け入れる側となった今日,アジアの近隣諸国から来る留学生に,行き届いた配慮をし,教育研究を行なってもらうことがお返しであり,長い目でみたときに,日本のため,世界の平和,発展に寄与することになると考えるのである。

 現在,四万人近い在日留学生達は,多くの問題で奮闘を余儀なくされている。その一つは,住居の問題である。全体の二割程度しか公的な寮に入ることが出来ない。東京大学でも留学生一五〇〇人の内約百五十人が入寮できるだけである。殆どの留学生が民間の下宿を借りていることになる。しかし,生活習慣の違いから下宿を貸してもらえなかったりする。また高い家賃,敷金礼金などの独特のしきたりなどが彼らの生活そのものを圧迫している。

 この間題に村しては,欧米諸国同様に,国や地方自治体が公的な寮を整備することで解決することができる。最近各方面に公的な寮の必要性を訴えているが,なかなか整備が進むという状況には至っていない。しかし,留学生を今後も増やすことを政府の方針としている以上,寮の整備は急務と言える。

 また,日本語の習得についても問題を抱えている。留学である以上語学は身に付けて来るべきところであるが,それぞれの母国で日本語を学習する機会はほとんどない。日本に来てから語学研修をはじめるようでは日常会話にも事欠くことは明らかであるし,本来の教育研究が充分に進められるかどうかは疑問である。東京大学でも,留学生センターで六ヵ月研修するが,充分とは言えない。

 わが国は途上国への経済的な援助として多額のODA予算を計上している。途上国からの留学生の場合,その国の人材を育てるという援助の意味がある。つまりODAを活用し,留学前に母国で日本語を習得するための施設を設けることが出来ないものであろうか。

 さらには,留学生を受け入れる大学側の教育研究環境の問題などがある。このような状態で留学を終えた若者が,日本に対してどのような感情を抱くかは,それが親日的なものかどうか疑わしいものである。留学生は帰国後,その国を担う立場になることが多い。留学生の処遇を今のままに放置しておいたのでは,将来それらの国々と日本との関係はどうなってしまうのかと,危惧の念を抱かせられる。将来の日本は危ないという声も聞こえてくる。

 このように,留学生の問題は一大学や個人の問題ではない。国の問題であるという認識が必要なのである。

 さて,これらの問題を解決するためにも,国民全体が,文化は多様であるということを今以上に理解する必要があろう。日本文化に長所短所があるように,途上国の文化にも長所短所があろう。文化は多様であり,世界には異なった価値観を持った人々がいるのである。工業文明が充分に発達していなくても,高い精神文明を持つ民族は多い。日本人の他民族の人々に村する蔑視感が少しでもあれば,それを払拭する必要があるのではないか。本質的には同じ人間であるという認識のもとで教育を受けることにより,数年後には異文化に対して理解のある人間に育っていく。

 このために必要なことは,次の世の中を担う今の小,中学生の心を国際化することである。また,指導にあたる教師自身が国際性を持ち,途上国を理解することが大切であろう。授業等においては,日本中心の学習にならないよう,世界の中の日本という位置づけを行ない,且つ,自らの文化に対して自信,誇りを持つことができるよう,また,異文化に対して寛容な心を育成するような教育を行なってもらいたいと考える。

 今の日本は,文化,教育に対してまだ貧乏な国といえるのではないか。二十年後を考えるとき,はたしてこのままでよいものだろうか。日本が本当の意味において豊かな国となるためには,国民一人一人の心が国際化されることである。その国際化のためにいちばん大切なことは,教育ではないだろうか。日本人は世界の中でリーダーシップを取ることができないと言われるが,開かれた教育を通してこそ,はじめて日本人が国際的な社会で指導的な立場を取っていけるようになると考えている。