世界遺産保護条約の批准 前文化庁長官 川 村 恒 明 |
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42号巻頭言(1992年7月20日発行) | ||
さきの通常国会で世界遺産保護条約が批准され,わが国も人類共有の貴重な遺産を保護する国際的なネットワークの中に正式に仲間入りすることになった。この条約はユネスコによって提唱され,昭和四十七年に採択,現在世界の百二十二の国が加盟している。 最近の地球環境問題への取組みのひとつとして,この条約による自然遺産保護の進展に大きな関心が寄せられているが,この条約はその正式の名称,「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」が示しているとおり,自然遺産は勿論であるが,いわゆる文化遺産を巾広くその対象としたものである。 世界各地に散在するこれらの貴重な遺産を保護するため,世界遺産委員会の設置,世界遺産リストの作成,遺産保護のための国際協力の推進等の事業が定められており,現在この条約によって顕著で普遍的価値を有し,その保護がすべての人類の責任であるとされている遺産の数は約三五〇件,うち文化遺産が約二六〇件(全体の約七五%),自然遺産が約八〇件(約二五%)に達している。 勿論文化と自然は別々に存在するものではなく,本来相互に補いあう関係にあり,殊に種々の民族の文化的アイデンティティは,それぞれの民族が生活してきた自然環境の中で,その深い影響の下で培われてきたものと理解すべきであろう。ともあれこの条約では,文化遺産としては主として不動産である遺産,すなわち歴史物,芸術的又は学術的価値を有する遺跡や建造物群あるいは記念工作物の類いを指し,一方,自然遺産としては学術上,保存上あるいは鑑賞上の価値を有する自然の地域,動植物の生息・自生地等を対象とするとされている。 これらの遺産は,具体的には各国からの推せんに基づき,各国の代表で構成される世界遺産委員会において審議,決定されるということになっているが,この世界遺産リストを通覧してまず目につくことは,実に多種多様の遺産が登載されているということであろう。 自然遺産の場合にはその多くがいわゆる国立公園や自然保護区とされている地域や場所であり,比較的共通性のあるものが多い。一方,文化遺産の場合はそれこそ千差万別というべきか,万里の長城やピラミッドといった巨大構築物から仏教やキリスト教の寺院・修道院跡,あるいはローマの旧市街地の都市の一定の地域,さらにはアメリカの自由の女神像,ポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡までがリストアップされている。 |
それではこのリスト作成の具体的な判断基準はどのようになつているのであろうか。自然遺産の場合には例えば生物学的な進化を示す生物や絶滅の危機に瀕している野生生物の生息地域,地球自体の進化生成の痕跡を顕著に示す地域や景観というように比較的客観的ないし共通に理解しうる基準で選ばれていることはさきにみたとおりである。 文化遺産の場合にも,例えば過去の歴史の重要な足跡を残していること,歴史的に重要な思想や信仰と関係があること,ある文化の生活様式を表現している顕著な例があること等の基準が示されている。しかし例えば特定の宗教の聖地のようにその宗教を信ずる者にとってかけがえのない遺跡が,その宗教と対立関係にある他の宗教関係者にとっては全く何の価値ももたず,むしろ破壊すべき対象とされている場合があり,又,かつての大会戦の戦跡に対する評価が勝者と敗者によって全く異なるといったことも稀ではない。 このようにこの文化遺産のリストは,はしなくも人類がこれまで歩んできた歴史の多彩さとそれに対して世界の多くの人々が抱いている価値観の屈折の複雑さを垣間見させる具体的な実例を提供しているといってよいではあるまいか。誠に世界人類の過去から将来にわたって共通しうる文化的価値を定めるということは容易なことではない。 文化の多様性の保持ということがいわれ,国際理解教育の第一歩は異なる文化の理解とそれへの寛容の精神を培うことということが,よくいわれている。総論として,基本的な方向としてそのことに間違いはないが,いざ各論として例えばこの遺産リストの作成という形で議論を始めると,異文化を真に理解するということが如何に大変なことであるかが良くわかるであろう。 これまでわが国はこの条約を批准していなかったため,わが国の文化,自然遺産についてこのような判断基準の下に対象を選定することを考える必要はなかった。しかしこれからは遺産リスト登載候補遺産の選定作業を急がなければならない。 今回の批准はたしかに遅きに失したきらいがあることは,事実であろう。しかしそれだけに,これだけ社会全体の国際化の推進ということが大きな政策課題になっている現時点において,今回の批准を契機に世界的な広がりの中でわが国の歴史や文化,そして自然環境そのものを見直し,国際社会に理解を求める作業を行うことは大きな意味のあることと思われる。その点から今回の批准を歓迎するとともに今後の関係者の努力を大いに期待したい。 |