国際的日本人のパイオニア,野口英世

     フリージャーナリスト・大学講師  山 本 厚 子

43号巻頭言(1992年12月20日発行)

 私は,七〇年代は民間企業の国際プロジェクト,八〇年代からは日本政府の経済援助計画に通訳として参加し,ラテンアメリカ諸国で仕事をしている。

 八〇年代に入り,現地の邦人の数が増えてくると,異文化を尊重しない彼らの悪い評判を耳にするようになつた。日本が経済大国になるにつれ,邦人の行儀の悪さと社交下手から,現地で数々のトラブルを目にして,「日本人とは・・・」と考えさせられていた。

 そんな折,エクアドルの港町グァヤキルで偶然に野口英世の胸像と対面したことがきっかけで,地球的規模で活動した彼の足跡を辿り,一〇年の歳月を費して「野口英世知られざる軌跡」(山手書房新社刊)という本にまとめた。

 野口英世が,学歴偏重の日本の社会に見切りをつけて,単身アメリカに渡ったのは一九〇〇年の年末,二四歳の時であった。かって東京で一度通訳をしたという縁だけのペンシルペニア大学のフレキシナー博士を頼っての渡米であった。

 野口の無謀なやり方に博士は驚いたが,自分のポケットマネーで仕事を与えた。人の嫌がる危険な毒蛇の研究であったが,不眠不休で努力した結果,「人間ダイナモ」と呼ばれるようになる。

 カーネギー財団の奨学金でデンマークに一年留学した野口は,ニューヨークに新設されたロックフェラー医学研究所に首席助手として迎えられた。後に,同研究所の花形医学にまで成長する。

 そして,当時世界の人びとの焦眉のテーマであった黄熱病研究のためにラテンアメリカ地域に出かけ,精力的に活動する。エクアドル,パナマ,メキシコ,ペルー,ブラジルなどに足跡を留めている。

一九二八年五月,西アフリカのガーナで,自らの研究テーマである黄熱病に罹って五二歳の波乱に満ちた生涯の幕を閉じたのである。

 現在,グァヤキルとリオに「ノグチ通り」があり,ラテンアメリカ七ヶ所に銅像,レリーフが存在し,現地の人びとは今なお畏敬の念で野口について語る。今世紀の初めに日本を飛び出し,生涯の半分を海外で過し,世界の各地で活躍した彼を,国際的日本人のパイオニアと呼んでも過言ではないだろう。

 現在,海外に在住する日本人の数は約六六万人に達し,第三世界から日本にやって来る出稼ぎ労働者の数は年々急増している。海外日系人協会の調べでは,ラテンアメリカ地域から日本に入国している日系人の数が約一七万人であるという。九〇年代に入り,「国際化,移住」というテーマは日本国内の問題になってきた。

 野口英世が,ラテンアメリカ地域で今なお評価される要素のひとつに,卓越した語学カが挙げられるだろう。

「教えに来たのではない,習いに来たという野口博士 葡語の返事でエスタード紙記者をビックリさす」という見出し付きで,ブラジルの邦字新聞は野口のポルトガル語をほめている。

 ロックフェラー資料館に保管されている野口直筆の履歴書には,一九〇〇年に渡米した時に英,仏,独,中国,露語ができると書かれているが,これには少々のはったりもうかがえるが,ブラジルの新聞記事が示すように実力が評価されている。彼は訪れる国の言葉を使って,現地の人びとに溶け込もうとして好感を持たれたようだ。

 また,演説も上手で人の心をとらえている。「・・・もし,お国が私を必要とする時には急いで馳せ参じましょう」と,エクアドルを去る時に挨拶し,人びとの熱狂的な拍手を受けている。

 ラテンアメリカ地域では,野口英世を「医学の指導者」と評価する見方があるが,この基礎には,野口が出張した国々で開いた講演会や実験技術の公開があった。日本政府の開発途上諸国に対するODAプロジェクトの目的のひとつ,「技術,知識の譲渡」を,当時の野口も確実に実施していたのである。

 現地の人びとのために命をかけ,共存共栄を図ろうとした野口は,若い医学者たちをニューヨークで研修できるように尽力もした。

 ラテンアメリカ地域の人びとが偉人として慕う野口英世も,ニューヨークではカルチャーショックを受け,外国人の中で望郷の念や孤独に耐え,苦悩しながら突っぱり通した。

 国際社会の指導者としての日本人の役割,日本人の国際感覚が問われる今,国際人のパイオニア的存在の野口英世の生き方,処世術には,日本人のあるべき姿について,何らかの示唆を見い出すことができるように思われる。

 現在,私は二つの大学で約四〇〇名の学生にスペイン語を教えている。「二一世紀を担う彼らが少しでも国際感覚を身につけてくれたら」と,私の二〇年以上にわたる海外での体験談を混えての講義に,学生たちは興味深げに聞き入っている。

「スペイン語の弁論大会に出場する」と,真剣に練習する学生たちを見ていると,若き日に語学に熱中した野口英世の姿が重なってくる。