子どもの直接経験を生かした国際理解

    地域ぐるみの活動へ

    北海道江差町立江差小学校 原  恒 夫

5号巻頭言(1980年2月1日発行)

 海外日本人学校派遣教員が,帰国後その経験を学校教育の中で生かす機会は少ない.これは海外で得た貴重な経験も,社会科や道徳の一部にしか還元できないのが実情である.私は,帰国後,国際理解という視点で,学級から学年へ,全校父母,校下へとその活動を広げた.

「オランダの小学校との交流

 当地江差町は,北海道文化発祥地として知られている.明治元年十一月,榎本武陽の引きいる軍鑑開陽丸が,明治政府軍を追って,江差を攻劇した。しかし,オランダ製の最新型の開暢丸も,日本海の荒波には勝てず,江差港で坐礁,沈没している.

 昭和五〇年,この開陽丸が,文化庁から埋蔵文化財の指定で,にわかに脚光を受けている。毎年数千万円が投じられ,その引き上げ作業が進められている.

 本校では,この開陽丸を接点に,造船所のあったオランダドルトレヒト市の小学校との交流を計画した.この交流に当っては,海外子女教育振興財団の協力もあって,一年後の五十二年九月,ドルトレヒト市長より二校の小学校の紹介があった.

 以後,児童会が中心になって,一学期

一回程度の交流を企画,図面作品,工作,写実,八ミリフィルム,パンフレット,カレンダーの交換を行っている.特に一昨年七月の本校開校百年記念のために,大量の図面作品の送付を受けた.

 昨年十一月には,江差町長,教育長がドルトレヒト市の二校を訪問,きらに活発な交流が約束された.

二,日本人学校,補習校との交流

 オランダの小学校の交流は,学校対学校の交流で,児童会から各学級へとおろされるが,小学生には,語学の問題もあり,相互の理解にも一定以上の深まりは期待できない。

 当初,オランダ理解のために,主として,アムステルダル日本語補習校の皆さんとの文通を行った.現地の日本人の子どもから間接的ではあるが,多くの情報を得た。その後,オランダ以外の日本人学校との文通希望が出て,現在,二年生から六年生の児童二百人ほどが,各国との交信を続けている.日本人学校との文通は,三年間で,延六百人が参加,相手校は,六十地域,交信数は,二千通を超えている。

三,文通クラブの発足

 海外日本人学校の文通は,課外活動として,希望者が参加してきたが,五十四年度から,クラブ活動

としてきらに充実してきている.クラブ員は,自分の文通と,全校の文通希望者の紹介,コントロ−ルを担当している。

四,ユニセフ・ユネスコ活勒への参加 五十一年度から,ユニセフ募金への奉加。今年度から,ユネスコ・コーアクショソ事業へ参加,開発教育の一環としてアジア諸国の理解を深めている.

五,PTAの参加

 五十三年度から,国際理解の活動に,PTAが積極的に参加,外国人との交流,日本人学枚PTAとの交流を続けている。特にPTA広報委員会は,年二回の日本人学校PTA広報部と広報紙の交換を行っている.

六,地域青少年団体の結成

 五十三年より,本校卒業生を中心に,国際交流団体を結成,ユネスコ活動,ユニセフへの協力を進めている.中でも,札幌市の北海道イソターナショナルスクール,東京の東京韓国学校との交流が活発である.またユネスコ,ユニセフ,北方圏センターの各種の展示会を誘致,地域住民の国際理解に努力している.

 昭和五〇年,本校に着任後,国際理解のための活動を続けてきたが,北海道の辺地である本校において,外国との結びつきは少なく,難しさがあった.現代のマスコミによって多くのことを知っていても感覚として,国際理解をすすめようとする態度はなかなか育たないのである。

 このような中で,本校から一望できる江差港に沈むオランダ製の軍艦から,接点を求められたこと,多くの海外日本人学校の皆さんの協力によって,子ども連自身の手で,外国を感じることができたのは,幸いであった.

 特に交通が緑で五十三年七月ヒューストン日本語補習学校から,現地アメリカ人教師を本校へ派遣していただいたのは,本校に国際理解教育が定着することになった。

 欧米を中心に行われている日本の国際理解教育であるが本校ではユニセフ・ユネスココーアクションへの協力によっても開発途上国の現状を知り,人類相互の協力,協調が国際理解と受け入れられるようになってきた。開発教育が進められようとしている中,本校としてもさらに研究しなけれはならない分野である.

 日本の国際理解教育が,地理的条件等で,どうしても,知的,精神的分野にかたよりがちな中で,私たち派遣教員が,現地の中で肌を接して深めた国際感覚は教育現場に大いに生かされなけれはならない.(元.バソコク日本人学校教諭)