ネットワークを通し,新たな飛濯を

                        上智大学教授  加 藤 幸 次

51号巻頭言(1995年7月20日発行)

上の娘をアメリカの小学校に入学させ,一年して帰国し,日本の元の小学校に再入学させたのは,丁度一〇年前の一九八五年のことである。小学校二年から三年生にかけてのことで,多少の遅れは当然あったものの,さして,本人は困難さを感じていたように見えなかった。たしかに,漢字や算数にはとまどい,やがて,算数は大の苦手にしてしまった。当時は,まだ,「外国はがし」「異文化はがし」の「適応」時代であったが,小学校の中学年ということもあって,あまり問題を感ずることなく終ったように思う。

 話は多少それたが,この「適応」時代を帰国生のもつ特性を「伸長」する障代へと導レた転換点を示す本は『国際化時代の教育』(創友社,一九八五年)である。川端末人氏と原真氏をリーダーとして行なわれた研究のまとめであったが,私自身も大いに「特性伸長」を強調した。「外国はがし」 「異文化はがし」の「適応」時代は,確実に当時「特性伸長」時代に常化していった。

 今でも思い出すのであるが,原氏は帰国子女「子宝論」を情熱をもって説かれ,他方,川端氏は当時の「適応」論をはげしく批判された。時代がまさに転換をとげようとしていた。

 今回は下の娘をアメリカの小学校に入学させ,さらにミドル・スクール(第六学年から第八学年の中間学校)に進ませ,約二年をへて,本年四月に日本の公立中学校に入学させることになつた。この中学校に進学してくる小学校は帰国子女受入校で,すぐれた実績をあげている学校であるので,さぞかし,中学校も帰国子女教育に理解があるものと期待していた。まず,入学させて気づいたことは,小学校に学んでいた帰国生の多くが他の中学校,多分,私立中学校へ進学してしまい,二,三人の帰国生しかこの中学校へ進学してきていないという事実である。やはり,帰国子女の「特権」を生かして私立中学校を受験させておくべきだったかもしれない。

 特に,この思いは中間試験の結果を見たときである。母覿は特にそう思ったようである。二年近くを,しかも,小学校高学年で「空けて」しまうと,当然のことであるが,漢字はでさず,数学もむずかしく,もちろん社会や理科の内容にもついて行けないらしい。さらに,よく言われるように英語の成績もほどほどといった程度である。本人は普通の英会話はでき,かなりむずかしい英文も読みこなすのである。

 中間試験の結果はそれこそびりのグループで,今から通知表のことは予想され,担任教師も盛んにそのことを気にしているようである。上の娘も「適応」には二,三年かかったので,まして,中学生である下の娘はさらに時間がかかるにちがいない。長い目で見て行くより他に方法がない。

 実は,どうもこんな悠長なことを言っていられないらしいのである。三年後に迫り来る高校入試には内申書なるものがあって,通知表にある5・4・3・2・1がきわめて重要らしいのである。一体今までの帰国子女はどうこのことに対処してきたのだろうか,と自分の娘のケースに直面して,改めて考えさせられている。

 日本の入試体制は本来帰国子女のことを考慮されてできている訳ではない。大学入試では帰国子女に村する特別枠があるとしても,高校入試ではどうなっているのか。たとえ,特別枠があるとしても,それは帰国後一年以内とか制限があるのであろう。そんなことを今から詮索していることもないのだが,ともかく,途中で日本を「空けた」子どもには厳しい制度である。

 そう言えば,海外にいても補習校や塾にかよう子どもが多いと聞く,通信教育で日本の学習にも余念がないと聞く。たしかに,帰国後のことを考えればこんなになるのであろうか,と自分の娘のケースを通して考えさせられる。一体国際化がますます進行する状況にあって,学校教育はこんな姿であっていいのだろうか。外国人子女はもっと困難な状況にあるに違いない。

 相対評価システムという「他人と較べる」順列主義こそ根本にある問題ではないだろうか。一人ひとりの子どもという視点ではなく,集団の中での位置が問題になる考え方や体制こそ問題ではないだろうか。

 指導のあり方を見てもまたしかりである。下の娘の場合で言えば,英語は一年,二年上の子どもたちと一緒に教えてほしいと思うし,他方,他の教科は下の学年の子どもたちと一緒に教えてほしいのである。学級全員同じレベルの内容を一斉に指導して行く方法以外に他の方法は思いつかない,と言いたげである。さらに,その子の特性を伸長するような指導が考えられてもいいのではないか。結局,「個性化教育」をめざす以外に外国人子弟教育を含んで,帰国子女教育の根本的な解決はない。新しい時代を開いて行きたいものである。