海外子女教育研究二十年に思う

               龍谷大学文学部助教授 小 島   勝

52号巻頭言(1995年12月20日)

 私が,海外子女教育に関する最初の研究報告を行ったのは,「在外・帰国子女の適応に関する調査(予備調査)報告」(京都大学教育学部比較教育学研究室,昭和五十年) においてであるから,もうそれから二十年経ったことになる。当時,この研究課題に先駆的に取り組んでおられた小林哲也先生のもとで,調査研究に多忙な日々を送っていたが,日本の教育の国際化に関わる新しい教育問題の研究に,『血わき肉おどる』といえば大げさだが,青春の情熱を傾けていた。大学院に入ってどのような研究生活を送ろうかと思案していただけに,光明を与えられた研究課題でもあった。

 また,この直後に,京都大学東南アジア研究センターの矢野暢先生から,文部省科研特定研究「文化摩擦の研究」での「南方関与」研究に誘われて,ここで第二次世界大戦前に「南洋」ないし「南方」と呼ばれた今日の東南アジア地域における日本人学校の研究をはじめることになった。本研究協議会の大久保静人先生は,早くから戦前の在外子弟教育問題に関心をもっておられたが,それまで東南アジア地域における日本人学校の実態を研究した人はなく,開拓精神に燃えて当時の日本人学校の先生方や児童生徒の皆様にインタビューを重ねていったことが昨日のように思い出される。

 それ以来今日までの研究生活をふりかえると,いろいろなことが想起されるが,小林先生らと昭和五十二(一九七七)年十一月から十二月にかけて,マニラとシンガポールの日本人学校調査に出かけたのが,私にとって初めての海外体験であった。マニラ空港に着陸してのあの東南アジア特有の生暖かな空気と市街の雑踏,貧しいスラムの風景,タバコを一本一本路土で売っていた子どもたち‥。そうした中にそびえる豪勢な日本の商社・銀行のビルディング。そのコントラストが印象的であった。フィリピン人の人なつっこさは,田舎の人情の中で育った私にとって共鳴できるところでもあった。しかし,フィリピン人の家に私達調査団が招かれた時,出された料理を何度も取りに行き,できるだけ多くいただくのがマナーであることを知って驚いたこともある。この時はマニラに着いて一週間目であったが,現地の言葉や習慣に触れる中で,「私は日本人である」という強い感情が体の中から沸き上がってさたのを今も思い出す。これ以後,フィリピン・タイ・インドネシア・マレーシア・台湾・中国などに調査研究のた

めに度々出かけることになつたが,海外帰国子女教育研究を通しての現在の私の思いのいくつかを,以下において述べてみたい。まず第一に,海外子女教育の理念は,日本人としてのしっかりとしたアイデンティティの基礎の上に,異文化を広く受容してゆける開かれた態度を養うことにあると思うが,この日本文化と異文化受容の関係がもっと多角的・重層的に研究されなければならないと思っている。日本文化は古来,外来の文化を取り入れて構成されている「雑種文化」であるので,大いなる許容力がある反面,文化に格差をつけて,「劣っている」・「異なっている」と見なした文化に対して殊の外厳しいという閉鎖性をもっている。特に仲間内の人間関係を乱す恐れのある文化に村して苛酷である。この姿勢が日本人の向上心・団結力を支えてきたが,どのような民族文化も特有の価値を宿し,一人ひとりの幸福観もそれに規定されているという「文化相村主義」 の態度の育成が,これからの日本の教育に根づく可能性はどうなのか。

 第二に,「異文化に育つ」 ことによって養われていると見られる,広い視野や新奇なものの見方,独立的な判断力,自己開示とコミュニケーション能力などの内実を実証的に明らかにする必要がある。「新しい学力」が海外子女に育っていることが実証されれば,これからの日本の教育に大きな示唆を与え得る。

 第三は,もっと歴史的・時間的視点ないし感覚を,海外子女教育・国際理解教育に導入することが必要なのではないか。異文化体験といっても,結局,児童生徒一人ひとりの異文化体験の個人史に着目しなければ,目の前の児童生徒の実像は見えてこない。国際理解教育も世界の現象を広く見渡すだけでなく,各国・各民族のこれまでの歴史を深く知ることによって表面的・皮相的な理解を深化させ,共感が醸成されるのである。情報社会の変化の激しい今日の社会状況においてこそ,静かに各国・各民族文化の依って立つ歴史を繙く姿勢が,より求められる。

 最後に,関心を共有する研究者と教育者がもっと親しく連携して,胸襟を開いて交流するとともに,共同して海外子女教育研究を進展させ,その成果を教育実伐に生かす姿勢が求められせっ。「全海研」が,その仲介役をよりとられることを切に期待し,念願している。