アメリカの他文化教育から見る日本の現場への示唆

東京大学大学院総合科学研究科 助教授 恒吉僚子

60号巻頭言(1998年7月31日発行)

 自他共に「同質的」な社会の筆頭に挙げられがちであった日本でも,「内なる国際化」が叫ばれ,国際理解教育の機運も一層高まっている。

 多文化教育の理解は必すしも一様ではないが,多様な人々の共存,社会的平等という目標を掲げ,少数者の運動を大きな契機として発展してきた。

 ここでは多文化教育のアメリカ版を眺めつつ,それが日本の現場に持ついくつかの示唆に富んでいる点を自分なりの解釈でここで取り上げてみたいと思っている。もちろん,多文化教育のアメリカ版の中でもヴァリエーションがあり,以下の方向性に全て合致するわけでもない。むしろ,下記のいくつかの点は,日本の現場への示唆という視点からの自己流のアレンジメントである。

1.足元の多様性の認識を通じて視点を広げてゆ く

2.意識改革ももちろんのこと,無意識の部分も含めて,差別や偏見を生み出す制度的,社会的な仕組みに注自する

3.バラ色のユートピアではなく,葛藤や摩擦も含めて異質の人々の共存を理解する

4.多様性は社会の活力であり,また多文化的な視点・スキルは少数者だけでなく,全ての 子供に必要なものであることを認識する。

 1に関して,アメリカの多文化教育は,当初の民族・人種を中心とした理解から,社会の中の多くの「文化」,例えば,ジェンダー,障害の有無,年齢,地域,宗教の違い等に関係したものをも含むものへと展開してきた。多文化社会の中での様々な葛藤,偏見や差別,可能性・・・…そうしたものを,現実に教室にいる多様な「文化」を担う子供達をリーソースに用いながら,子供達にとって身近な日常的に接する仲間の話から出発してゆ

く「足元」からの多文化共生への視点は,とかく「多」文化の話が「他」文化の話になりがちな日本のコンテクストの中では特に示唆に富むものと思われる。異文化−−遠い人−−外国の人というようなベクトルが,異文化−−近い人−−クラスメートや隣人という視点に転換するということでもある。

 同時に,こうした視点はグローパルな次元に展開してゆく可能性を持つ。文化多様性や特定の人々がマージナル化されるメカニズムは,ローカルであると同時にグローパルであり,文化への感受性や異文化問のコミュニケーション・スキルは多文化共存の時代にはローカルにもグローパルにも会ての子供に不可欠である。そうした意味でも,ローカルな視点はグローパルに展開してゆく可能性を秘めている。

 こうした足元からの多文化共生の視点はまた,3,4のように,葛藤や摩擦を前提にしながらも,かけがえのないもの,社会や世界の活力源として多様性を理解する視点とも関係している。日本の単一文化的意識のコンテクストでは,しばしば,多文化社会の負の面が強調され,調和を乱す異質分子は排斥ないし同化を求められてきた。足元の現実の葛藤や摩擦を直視しながら,多様性の中に意義を見いだす,難しいからこそ取り組むべきものでもあるという視点を,多文化教育のアメリカ版は示唆しているように思える。

 最後に,2に挙げたように,多「文化」をめぐるマージナル化のメカニズム,差別や偏見は,多数者にも,また,しばしば少数者にも自覚されていない性質のものである。こうした中では特に,掛け声だけでなく,制度化が課題となる。

 以上,簡単だが,与えられたテーマについて,いくつかの私見をまとめさせていただいた。