日本の教育に欠けているもの

            大妻女子大学助教授・早稲田大学講師 服 部 孝 彦

63号巻頭言(1999年7月20日発行)

 数年前の夏,研究会出席のため,私はミネソタ大学トゥインシティー校のドーミトリーに滞在していた。夜,談話室でテレビをつけると,ミスティーン・アメリカとうビューティー・コンテストをやっていた。これは全米から選ばれたティーネージャーが,美と知性を競うものである。女性学を専門とする友人と,たまたまビューティー・コンテストについて数日前に議論したばかりであったため,次の日の研究発表の準備をしなければならないにもかかわらず,ついテレビを見てしまった。最終選考に残った10名ほどのミスが審査委員の質問に,理路整然と,物おじすることなく堂々と答えている場面を見た時,私は日米の教育の違いを痛感させられた。日本で,学校教育を受けたティーネージャー達には,このミス達のように,しっかりと論理的に人前で自分の考えを述べることのできる力を持った者は,あまりいないからである。

  アメリカ人の多くは,小さい頃から話をする訓練を受ける。家庭でも幼稚園でも,大人は,子供が自分の考えを述べることを良いこととし,そのような機会を多く与える。また小学校では,ショウ・アンド・テルというスピーチをよくおこなう。これは,自分の好きな物を学校に持っていき,クラスメートの前でなぜそのものが好きかを,順序立てて聞き手に理解しやすく説明するものである。私は,小学生時代は,イリノイ州パークフォーレスト及びテキサス州オースティンで学んでいたが,いずれの小学校でも,よくショウ・アンド・テルをする機会があった。いかに説得力のある話ができるか,またアイコンタクトをはじめ,どのような態度,姿勢で話せば,自分の話している内容に自信を持っているように見られるのかなどを,いつも考えていた記憶がある。このように人前で話をする機会を多く持てれば,それだけ上手に話ができるようになるのは当然である。

  何年か前,ノースカロライナ州のユニオンという人口八千人程の小さな町で,スーザン・スミスという若い母親が,自分の2人の幼い子を車に閉じこめたまま湖に沈めて溺死させたという痛ましい事件が起きた。この時は,日頃は静かな平和な田舎町に全米からレポーターが集まり,住民にマイクを向けて事件について尋ねた。するとだれもが堂々と,論理的に事件について自分の考えを述べるのである。

 おそらくインタビューを受けた人々は,今までテレビカメラの前でなど一度も話した経験のない人々である。にもかかわらず,今まで受けてきた教育のおかげで,このように自分の意見を,堂々と,しかも聞き手を納得させるように話すことができるわけである。

  昨年の夏,私はユタ州ソルトレイクシティーにある州立ユタ大学の夏学期の講義を担当し,世界中から集まった学生を教えていた。その中で,授業に対する取り組みが受け身で,自分から進んで発表しない学生の多くが日本からの留学生であった。彼ら,彼女らは,意見をぶつけ合いながら問題を解決していくというアメリカ式の授業に慣れておらず,皆かなり苦労している様子であった。日本人学生は,人前で相手を説得し,論破するように話すのが下手であるというのが,アメリカ人教授達の共通した見方であった。  私の親友に,国際交流の仕事をライフワークと考える,カリフォルニア州のモデストに住む,エド・サントワイヤーという人物がいる。エドが先日来日した際,私の担当する授業にゲスト・スピーカーとして来ていただいた。彼は学生に「私に勧める日本料理は何か」と尋ねた。学生がお勧めの料理を言ったあと,次のエドの質問は当然「Why ?」であった。すると学生達は,だれ一人としてそれにすぐに答えられないのである。これは何もエドの質問があまりにも幼稚でバカバカしくて答えるに値しないと学生達が考えたからではない。日頃の学生達の日本語での会話でも「なぜ」と聞かれることはあまりないからなのである。答えられないのは英語力が不足しているからではなく,日頃から自分の考えを述べる訓練を受けていない上に,相手を説得する思考パターンを身につけていないからなのである。  21世紀に,日本が今以上に様々な分野で国際競争力をつけ,同時に世界のリーダーとしての役割を果たしていくためには,論理的に話を展開でき,相手を説得する発言ができる力を持った人物の養成が急務である。そのために日本の学校教育は,受信型から発信型への転換を迫られているといえる。

 

 

 

 

 

 

 

ヒット カウンタ