ロンドン昔話

財団法人 海外子女教育振興財団専務理事  東條 和彦    

70号巻頭言(2001年12月25日発行)

 10月下旬、スペインのバルセロナで開催された北米・欧州地区日本人学校校長研究協議会に出席した機会に、欧州地区所在の日本人学校や補習授業校を10校余り訪問した。できるだけ当財団の職員や教育相談員がこれまで訪問したことのないところを選別したので、ロシアや東欧圏に初めて足を踏み入れることができたが、個人的な思い入れもあって、特にロンドンを加えた。
 総合商社在職40年の殆どが本社勤務だったが、一度だけ1972年から1978年までの5年半の間、ロンドンに駐在した。
 当時のイギリスは、オイルショック下の厳しい節電令で、オフィスに対しては週に3日しか電気が供給されず、日暮れの早い冬のロンドンでは、午後3時を過ぎると照明なしでは仕事にならず、現地社員はそそくさと帰ってしまう。商社の生命線であるテレックス・ルームだけは自家発電で稼動させたが、「時差はカネなり」で勝負している営業マンが夜遅くなってもテレックス原稿を書けるようにロウソクを買い集めることが総務担当の小生の役割のひとつだっだ。ローソクの在庫があると聞けば100km先の田舎まで社有車を走らせたから、エレルギー・セーブに反することをやっていたわけで、海外に来てまでローソクの調達が自分の仕事とはという悲哀感も相俟って、自己嫌悪に陥った。
 ロンドンでは比較的健全な娯楽としてカジノが定着しており、小生も結構楽しんだが、我々がチップ1枚25ペンス(当時の円貨125円)くらいで遊んでいるところへ、オイルマネーで潤うアラブ人が丁半に1,000ポンド(50万円)のプレートを張り、チップとして100ポンド(5万円)を事もなげに振り撒くのには白けた。
 仕事の上での最大の失態は、現地社員にフリンジ・ベネフィットとして通勤費を支給しようとしたのを新聞にすっぱ抜かれ、あやうく政治問題になりかけたことである。当時イギリスの労働党政権はインフレ抑制のため、Pay freezeと称する厳しい所得政策を採用し、賃上げを週4ポンド(約2,000円)以内と規制していた。ところが、インフレは一向におさまらず、若手社員は満足な昼食もとれず、牛乳一杯で済ますというような状況だった。
賃上げ規制は職場を変えれば適用されないので、ヴェテランがよりマシな賃金を求めて他企業へ去ると、その代替者をより高い賃金で雇わなければならず、それがまた賃上げを抑制されている既存スタッフに不満をもたらすという悪循環もあった。そこで生活苦にあえぐ現地社員に少しでも均霑し、雇用対策上からも名案として思いついたのが、日本では当たり前の通勤費実費支給だが、通勤費自己負担が当然の英国では、これが日本企業による

賃上げ規制違反としてディリーテレグラフ紙に取り上げられ、次いでタイムズ紙が続報した。これを見てマスコミがオフィスにラッシュしてコメントを求められ、保守系各紙や夕刊大衆紙が我々をサポートして政府政策批判を展開するに及び、これはまずいと直観し、慌てて雇用省に出向き、事の経緯と当方真意を説明の上、規制に違反する意図はなしとして撤回した。現地社員の落胆振りは相当なものだった。
良かれと思った温情主義だが、やや軽率のそしりを免れず、“郷に入っては郷に従え”という諺を改めて痛感した。
 帯同した7歳と5歳の男児2人は当初自宅から至近の現地インファント・スクールに通わせたが、教育水準も環境も思わしくないため、私立校に転じようとしたものの、スンナリとは受け容れられず、かなり時間がかかった。相談したイギリス人に大いに自己顕示すべしとアドバイスされ、手紙でも面接でも、自分たちの知的水準の高さや勤務先会社の英国経済への貢献を面映いばかりにPRし、試験で英国人の苦手とする算数の出来が良かったこととも相俟って何とか入学許可を得た。
1クラス15名足らずの小人数でフランス語・ラテン語が必須、試験結果はトップからビリまで告知板で公表するが、日本と違って、生徒も親も自然体でこれを受入れ、どうということはない。トビ級・留年ともに当然の如くで、同一クラスでも年齢に2〜3歳の開きがあった。しかも知教育に偏らず、広々としたフィールド、プール、体育館と整っており、秋冬はサッカー、ラクビー、夏はクリケット、水泳とスポーツも盛んで、演劇・音楽などの情操教育面まで配慮され、イギリスの一流私立校はかくまでかと感服した。
プールやテニスコート付きの大邸宅に住み、中には自家用飛行機まである家庭の子どもたちをバースディパーティーやティーに陋屋へ招き返すとき、家内は身の縮む思いがしたそうだが、子どもたちも送り迎えの親たちも一向に気にする風もなかったという。
在英任期も残り1年というタイミングで偶々日本人学校が新設されたので、随分迷った末、帰国後の順応への心配が勝り、半ば強引に転校させてしまったが、良かったか悪かったか、あれだけ現地に馴染んでいたように見えたのに、30代半ばの息子たちは今や国際感覚の片鱗すらとどめていないように思える。

 校長研究協議会の席上、発言の機会があったので、帰国後の全海研への積極的参加を要望しておいたが、先生方の海外での貴重な体験を本邦での国際理解教育に是非生かして戴きたい。