ことばと人間

言語交流研究所・ヒッポファミリークラブ代表 榊原  陽

72号巻頭言(2002年09月30日発行)

 人間なら誰でも三、四歳にもなれば、そこで話されていることばを自由に話せるようになる。三つも四つもことばが聞こえてくる環境なら、聞こえてくる数だけのことばが話せるようになる。これが人間の定義であろう。父親の転勤などで家族でニューヨークにやってきた五,六歳の太郎や花子は公園で友達と遊びながら早ければ半年ぐらいで、遅くとも一年すれば英話が完全に話せるようになる。大人だってそうだ。特に何百ということばが飛び交っているインドやアフリカからやってきた人などは一年もしないうちに、日本語達者に話している。

「どうやって?」彼らはきっとこう答えるだろう。

「いつの間にか、知らないうちに」

 このことを私たちは当たり前のように「ことばの自然習得」と言ってきた。しかし,その自然とは何かを私たちはとことん問いつめないままに過ごしてきたように思う。

自然がどう行っているか、それを探求し、記述することばを見つけることが自然科学の目標だろう。それにはひとつだけ条件がある。繰り返しおこる現象に限るということだ。その背後には,必ず簡明な法則,秩序が隠されている。これが自然科学者たちの確信である。人類の誕生以来,人間はことばを見つけ、創り担す営みを営々と繰り返してきた。人間がことばなしに生きてゆける生物だったら、人間はことばをつくりだすことなどしなかったであろう。自然には余計な遊びなどしている余裕はないのである。人間は独りだけでは生きていけない生物だった。人と人との間にことばの網の目をはりめぐらし、互いに共鳴しあうことで生きていく。それがことばの発明たったのであろう。

 ある夏、鳩がベランダで巣作りをした。卵を生み、ニ週間ほどで雛がかえり、数週間もすると母鳥とそっくりの成鳥になった。飛ぶ練習を始めたなと思って見ていると、ある朝,母鳥と欄干に並んだ瞬間にはもう未知の世界へと飛び立っていた。フィルムを早送りしていると錯覚するほど、それこそあっと言う間の出来事だったが,私は心のそこから感動していた。その時、アッと思った。「これはことばだ」と思ったのである。

一個の卵細胞の時から,その場のその時の全体があったのである。やがて雛として誕生した時には、その体の数億の細胞からなっているが,それはやはりその時の今の全体を表現した姿なのだ。生物にはその瞬間、瞬間,何ひとつ過不足なく全体として成長し続けているのである。

 生後二,三ケ月の赤ちやんをお母さんがあやしている。御機嫌,絶好調らしく「アーアー、ウーウー」ととめどもない。お母さんも饒舌にいつまでも飽きることなく嬉しそうに応えている。

「このごろ、ずいぶんおしゃべりするんですよ」そこにはすでに何ひとつ過不足のない、ことばの世界全体がある。ことばは生物が細胞分裂していくように、いつもその時々の今の全体として成長していくのである。

 これまでの言語研究は、ともするとことばをあるものとして、それを外側から分析分類し記述するものに偏ってきた。その流れを背景に、言話教育はその分類された部分を、発音とか単語とか文法などをひとつづつ集積するプログラムとして工夫されてきた。ことばの自然の全体像を見据える視点がまったくと言っていいほど欠けていたのである。例えば、子供たちは三、四歳にもなれば基本的な文法も聞違えない。何故か。敢えてアナロジーとして言ってしまえば、文法とは生物の神経系のようなものではないか。神経系も生物の全体の成長の中で共に成長するものである。

ことばの自然の全体像が見えなければ、当然の結果として不自然な人為的な方法に頼ることになる。人+為は、漢字では「偽」である。

 ほんとうのことばの自然を見つけよう。

「赤ちやんに学ぼう」それが合言葉になった。といっても赤ちやんの内側に起きていることは、外側からいくら観察してもその実像は見えてこない。しびれをきらしていると誰かが叫んだ。「赤ちゃんやっちゃおう!」これが十六年前のヒッポファミリークラブの多言語活動の出発だった。それは自分の中に生き続けている赤ちゃんとの出会いへの旅立ちだった。初めて出会ういくつかのことばを、そのことばが聞こえる環境を作り、耳と口と心(人と人の間)でマスターしようというのである。

 一口に赤ちゃんになろうと言っても、大人にとっては容易なことではなかった。試行錯誤の繰り返しだった。赤ちゃん(自然)と大人(不自然=既成概念)の間を行ったり来たりしながら、それでも少しずつ、確実にみえてくるものがあった。それぞれの人が赤ちゃんを想像し、同じようなことをやっていると、誰にも体験できる共通のことが次々と起こってくる。自然には重心があるのである。

 いつの間にか、知らないうちに、いくつかのことばが話せるようになったおとなたち。「これなら赤ちゃんでもできる!」それが異口同音のことばだった。大人の内なる赤ちゃんとの出会いである。赤ちゃんはことばで世界を見つけ、自分を見つけていく。赤ちゃんだけではない,大人とてまったく変わらぬ営みを続けているのだ。

 ヒッポファミリークラブの冒険は、そのことばで素晴らしい自分を見つける旅そのものなのである。