帰国子女教育再考

財団法人 海外子女教育振興財団専務理事  根道 博

74号巻頭言(2003年07月05日発行)

 帰国子女教育問題は文部科学省をはじめとする教育関係者や父兄の努力により20年前に比べ格段の改善が見られ、なんとなく一段落の感が漂って居ります。当財団は年間4千件に近い教育相談を受けて居りますが帰国生及び両親は依然として様々な悩みや問題を抱えて居ることが実感され、毎年一万数千人の小中学生が帰国していることを考えると財団の使命の大なるを痛感します。教育界の重点が世の中の変化に対応して外国人子女教育や国際理解教育へと発展してきたことは充分理解できますが、その問題の原点は帰国子女問題に既に内在しており、ここで帰国子女問題への対策を今一度看直すことが問題解決に繋がる最も着実な方法であると思います。

 例えば、帰国子女の適応教育(特に日本語教育)は特殊技能を要する専門性の高い分野であるとの認識が希薄で日本全体で看ると専門家養成の努力と政策が不充分ではないでしょうか。公立の受け入れ指定校の廃止に見られるように、帰国子女は今や希少なものではなくなり従って一部の人に任せるのではなく教育界全体が取り組むべき課題であると言う認識は、帰国生や日本語の出来ない生徒の増加と地域的広がりに対応するための施策の根拠としては適切であると思いますが、はたして帰国子女教育の専門性に充分な考慮が払われたのか疑問が残ります。受け入れ校に蓄積された知識経験が拡散希釈してしまい、期待通り伝承拡大して行けるのか危惧の念を禁じ得ません。得てして皆でやろうは何故自分が犠牲を払ってまでやらなければならないのかと言う疑念を生むの弊があります。

 皆でやることであるが故に、又特殊なもので無くなったが故に帰国子女教育を人並み以上にやっても果たして正当な理解と評価が得られるのかと言う疑問もあるやに仄聞します。

 殊に公立学校では帰国子女教育に使命感と情熱を持って専門家になろうとしても3〜4年で転勤になり、その技能を継続的に生かす可能性は必ずしも高くないとなれば、専門家としての将来性に期待を持てと言っても中々共感は得られないでしょう。又、それを志す者も少なくなると言う悪循環を生むのは必然でしょう。実際、帰国生の適応授業は慢性的先生不足に悩み有志の教諭やボランティアの先生に頼っている状況があります。

 片や全国に海外日本人学校や補習校から帰国した先生方は一万  人に上りますが、その経験と実績が必ずしも生かされていないの  は何故かが問われています。帰国子女教育を専門分野と位置付けそれに携わる人々に相応しい処遇と評価が行われていないことに原因があると私は考えます。帰国子女(延いては外国人子女)教育の専門家(下世話に申せばそれを職業として飯の食える人)を政策的に養成し適正に評価処遇する制度が待望されます。

 学力の問題もさることながら帰国生は、いじめを受けたり仲間はずれに成らぬよう、自分の異質な行動或いは考えが受け入れてもらえない場合何とか周囲に自分を合わせようと努力することを強いられています。個性を生かす教育が打ち出されたことは帰国生にとって大きな支えになると思われ、教育現場でも様々な努力がされていますが、もっと端的に“人と違っている事は良いこと”だと言う教育が必要ではないでしょうか。本来人類が群れて生きる生物である以上、異質を排除する本能が働くのは当然であるとの認識に立ってこれを抑制するのだと言う明確な観点が欠落しているように思われます。異文化や異質なものを理解することが重要であることは論を待ちませんが、同質性が高く仲間の和が優先される日本社会(特に子供の)にあっては先ず受け入れることを教えることが重要だと言うのは暴論でしょうか。近代史の過程で個の確立が充分ではなかった我々の社会では、社会と個人の葛藤において個人が勝利を収めることは至難の業です。強い個人を育てるには帰国子女のみならず人と違っていることを誇りにさせる教育が必要ではないかと愚考します。

 さて、国際理解教育、英語の早教育熱の波の中で海外日本人学校、 補習授業校、私立在外教育施設からの生徒離れが着実に進行しています。国際化と言う観点からは当然の結果でしょうが片や海外子女の日本語力の低下が指摘されています。これをどう評価するか難しいところですが、名古屋外国語大学中島和子教授の「二つ目の言葉の習得には、しっかりした母語の基礎が必要だ」と言う言葉(同教授著書『言葉と教育』)を改めて両親や当事者に噛み締めてもらいたいと思います。これは帰国子女問題の正しく原点であり、この点が充分理解されないと帰国子女問題は解決どころか拡大することが危惧されます。