「政府派遣教員の赴任劇」 〜時代は変わった?〜
田渕 良二
昭和59年4月。初めての勤務先が,インドネシアのジャカルタ日本人学校であった。赴任前には,斡旋元の財団法人海外子女教育振興財団で,パスポートと航空券を頂き,お言葉を頂いた。「出発は4月11日だからね。」。
当時は出発前の研修もなく,万事この調子であった。新調したスーツにトランク2個。これがすべての引っ越し荷物で,成田に向かい生まれて初めての飛行機,生まれて初めての海外を経験したのであった。勿論,向こうでは誰かが待ってくれているはずだが,誰がどこで待っているとか,着いたらどこに泊まって,その後どこに住むか,いつが始業で何年生の担任か,なんて情報は皆無。同時に同じ便で派遣された10名の政府派遣の先生方と家族がいる,なんて事もヤシ油のにおう中,現地に着いてから分かったこと。
しかし,翌朝目覚めたホテルのベッドで耳にした,町中のモスクから流れ来るコーランの響きは,新たなスタートに胸をときめかせるに十分な演出だった。
その日の午後から私は,住宅街にある一軒の古びた家に住むことになった。そこには,ジャワの田舎から出てきた若いメイドさんが,既に入っていた。そう,一つ屋根の下で言葉も風俗も慣習も,何もかも異なる人と一緒に住むことになったのである。それを驚きと共に,素直に受け入れていた自分が懐かしい。
さて,そのジャカルタ日本人学校で3年間勤務の後,私は今までに日本人学校や補習授業校の4校に勤務した。新しく来る教員を迎える立場に立ったのは数知れない。
ご存じの通り在外教育施設では,新しい教員を迎えるための,「受入委員会」のようなものが組織される。学校によって校務分掌に位置づけられていたり,そうでなかったりもしたが,概ね派遣2年目の教員によって構成される。
活動内容は,これまた現地の事情によって異なろうが,少し挙げてみると,事前には「派遣予定教員へのビデオや冊子による情報提供」,「住宅探しと(仮)契約」,「自動車の購入手配」,「ホテルの予約」,「手荷物の配送手配」,「航空会社との連絡」,到着後には「住宅の確認」,「説明会の企画」,「銀行手続き」,「電話のかけ方」,「生活安全情報の提供」,「帯同家族のお手伝い」,「引っ越し業者との連携」,「大使館関係の手続き」から,生活が自立するまでのあらゆる補助を行う。受け入れる方も年度末,年度初めの準備があるために極めて多忙となる。
かたや,3月末まで超多忙なスケジュールを終えた教員が,4月の初めには不安を抱えた家族を率いて,右も左もわからない未知の外国の地に降り立つ。それも,到着数日後には,時差も克服できないままに始業式を迎える。企業と異なり,赴任時に家族を帯同するところも,慌ただしさを倍増する。日本の学校なら,たとえ北海道から沖縄に赴任したとしても問題はなかろうが,在外教育施設の場合には,現地生活への適応という,生活基盤を根底から揺るがすような,大きな違いがあると言える。教育実践にかけては海千山千のベテラン教員も,現地での生活については全くのひよこになってしまう。事実,現地の人と現地語でやりとりして,あれもこれも自在にこなし機敏に動く受け入れ側の教員を見れば,神様のように見えるに違いない。
しかし,である。時は経って,今や情報化社会。通信手段の発達した今,赴任先の情報はいとも簡単に入手できる。現地の生活情報,気候,換金率,学校の様子ほか政治,経済状況などをインターネットの普及により何でも入手できるようになってしまった。実は,これが受け入れ側を困惑させている。
まず,フライングと呼ばれる,年内の内定者によるE-mailを通じての「吉報」。「今度○○に赴任させて頂く□□です。どうぞ宜しく」と,筑波での研修前にメールが入ってくるのだ。まず,これをやんわりとたしなめる。
続いて筑波研修が終わった直後から,教員或いはその配偶者から,やたらと問い合わせメールが入る。筑波研修で配布されている,何度も校正を繰り返し完成された珠玉の「赴任のしおり」(場合によってはカラー写真入り!)に目を通さずに,である。回答は概ね「しおりの○頁に書いてある通り…」が頭に付く。簡単に問い合わせできるようになったため,しおりを熟読する人が減ってきたのだ。
そして一方,インターネットで入手した様々な現地情報が,赴任者と家族の不安を煽る。勿論,あれこれと分かって結構なのだが,その情報を自分の生活と結びつけたときには,どうしても不安の種となる。私の最初に赴任した頃に,E-mailなどは夢想だにしないもので,ファクシミリさえ無かった。電話もつながりにくく,時差も有りで,かけることも容易ではなかった。今は,時差も気にしないですむ問い合わせメールが次々と入る。「住宅は〜の地域で,こんなのにしてほしい」,「車は○○がいい」と,リクエストも増える。
海外に出る者には,「そこに何が待ち受けているとしても,受け入れて自分の生活を築く!」という意志,おおらかな寛容さもほしい。「たとえ家族を同伴しても,それを守り,任期を全うする」という気概もほしい。おもしろいことに,そのような先生方も,自分が受入担当をする頃には,赴任時のあれこれを笑い話にできるのだが。
これから在外教育施設派遣教員を目指す方々。どうぞ,「赴任のしおり」を熟読の上,おおらかさと綿密さをもって計画し,元気な体で赴任し,豊かな教育実践と現地理解を進め,帰国後にそれを生かすつもりで赴任してください。ご健闘をお祈りいたします。
略歴
昭和36年9月 岡山県津山市生まれ
昭和59年3月 文教大学教育学部初等教育課程体育専修卒業
財団法人海外子女教育振興財団の斡旋により各地の在外教育施設で
学校運営主体と契約し、教員となる
昭和59年4月 ジャカルタ日本人学校教諭
昭和62年4月 オークランド補習授業校教諭
平成 元年4月 ダブリン補習授業校校長
平成 3年4月 クアラルンプール日本人学校教諭
平成 8年4月 アグアスカリエンテス学院校長代理
平成 9年4月 アグアスカリエンテス日本人学校教頭
平成13年5月 津山市立北小学校講師