「帰国後の足跡」 岡山県国際理解教育研究会
参与 片山 主計
前文
帰国して13年。「国際教育」と名のつくものにはすべて顔を出し,日本の子供たちに世界の子供たちに,広い世界を見据えた将来をと願いながら,60歳も後半にかかろうとしています。
ついこの間,劇団「四季」で歌っているという,台中日本人学校の教え子(当時の生徒会長)が岡山公演に来たので食事を共にしました。
「先生,もう僕も30歳ですよ。あの頃はよかったですね。一人一人が輝いていて,みんなにやる気があって。学校が思うように動いていきましたよね。」
今,こういう言葉をどこで聞くことができるだろうかと,しばし心と目が虚ろになりました。
この機会に紙面を借りまして,帰国後の私の足跡を二つだけ紹介させていただきたいと思います。
その1 「台中日本人学校」再建記念式に参加して
2001年6月,標記式典に招かれて台湾まで行ってきた。「台中日本人学校」とは15年前私が勤務し,一昨年の台湾大地震で倒壊したところである。
テレビに映し出される惨状に肝も潰れる思いをしたのは3年前のことだった。毎日通った道が,買い物をした市場が・・・・・押しつぶされた校舎が,亀裂だらけの運動場が。私はじっとしておれず,すぐに募金活動を開始した。シンフォニーホールの入り口にも箱を持って立った。当時の教育長さんのご助力もいただき,市内の各学校から,団体から個人から・・・・私は市内で集まった金額600万円余を携えて台湾へ飛んだ。
半年くらいは休校になるかと思いきや,地震後20日で,現地の幼稚園を借りて授業を再開したという。台湾側の絶大なる援助の下に,新しい土地を提供され,今立派な,日本人学校では世界一といわれる校舎が完成した。
式典は,厳粛な中にも国際色豊かで心暖まるものであった。両国国旗の下で,私は子供たちといっしょに両国の国歌を思い切り歌った。そこには国旗国歌の問題など微塵もない,台湾に住まわせていただいている感謝と,日本人としての誇りがあるだけであった。羽織袴の校長挨拶,ラフなスタイルの台中県知事挨拶,そして日本からの客人。なべて台湾に対する感謝と,式典での子供たちのすばらしさを称えられた。
きちんと座って,話される人の顔を食い入るように見ている一年生。児童会代表・生徒会代表の堂々とした挨拶,そして最後は児童・生徒による合唱曲『ふるさとの四季』であった。この「ふるさと」に始まり「ふるさと」に終わる唱歌メドレーは,日本を離れて生活している万人の心を打ち,客人である私でさえ目頭を押さえずにはいられなかった。ブラスバンドでごまかして,まったく歌を歌わない日本の中学校の卒業式,それに比べてここの生徒の歌声は“これこそ音楽だ”というものだった。いじめも非行もない学校。私は大声で叫びたい,ここにこそ本当の教育があると。
その2 この輝く瞳のために
白い歯を見せながら「ハロー ハロー」と人なつっこく寄ってくる子供たち。昨夜の雨で,バラックの間を縫う細い道はぬかるんで足を取られる。そこを裸足で歩き,汚れた手で握手を求めてくる。彼らの瞳には微塵の翳りもない。
ここはケニアの首都ナイロビにある,60万人が住んでいるといわれるスラムの一角である。
退職してからすぐ,私にも何かできはせぬかという不遜な気持ちで,まず訪れたのはバングラデシュだった。かの地に降り立った途端,その希望は無残にも打ち砕かれた。「これは何だ!」想像していたより何十倍も何百倍もの爆弾が落ちてきたような衝撃を覚えた。
一人ではどうにもならない,いや日本人みんなでかかってもどうにもならないであろう現実が一時にして押し寄せてきた。その夜はショックで眠れなかった。しかしこのままではいられない,何かできることはないかの一念で,今はAMDAのボランティアに関わり,ユネスコの寺子屋運動に馳せ参じている。
屋根と囲いだけがある5メートル四方くらいの教室で,地べたに座って字を書いているネパールの子供たち,洪水で水浸しになり,くるぶしまで泥に浸かりながら勉強しているバングラデシュの子供たち,山道を何時間も歩いて学校に辿り着くベトナムの原住民の子供たち。前述のナイロビのスラムのストリートチルドレン専用の学校で学ぶ子供もいた。彼らの目は真剣そのものだ。リュック一杯背負って行った文具を彼らに配る。これが何の役に立つのだろうと自問しながら。
しかし彼らはまだ学ぶ喜びを知っている。バス停や十字路にたむろして,通る人々に両の手を差し出す子供たちの瞳の何とうつろなことよ。
それを横目で眺めながら,何もできない自分の無力さを,その度に痛切に感じながらも・・・・・しかし,何かやらねばならぬと,心ばかり焦っている昨今である。