「全ては1本の電話から始まった〜全国組織と地方組織の理想の関係〜

                               東京・渋谷区立上原中学校  紅床 直也

                                                            (都海外子女教育・グローバル教育研究会)

102号巻頭言(2016年3月28日発行)

 平成5年度から3年間、台湾の高雄日本人学校に教諭として勤務した私は、都海研という名前は当然知っていたものの、赴任前も赴任後も没交渉が続いた。ましてや、全国組織(全海研)に関しては全く関心が無かった。ただ、長期海外派遣研修から得た体験の還元だけには精励した。当時勤務していた学校で生徒会主催の台湾大地震募金活動を行った。カンボジアに学校を建てる運動をしていたNPO法人の代表を呼んで、総合的な学習の時間の中で講演会をしていただいた。国際交流部なる新しい部活動を立ち上げ、いくつもの在京大使館を訪問した。そうした活動が認められ、東京都教育委員会から表彰を受けたこともある。いずれも、現在ではどの学校も行っているであろう教育活動だが、当時は極めて斬新なものだった。
 在外教育施設を目指す教員はどこか一匹狼的なところがあって、自分の理想は追求するが組織として活動することを好まない。私自身もその典型であった。その私が4年前に突然かかってきた一本の電話から都海研に関わることになり、あろうことか会長になってしまった。更にもう一本の電話によって、全海研と協力して全国大会を開催することになる。
 後にニューヨーク補習授業校長となるS先生から、当時私が勤めていた小学校の校長室に電話があった。帰国教員を母体とする都海研という組織があるのだが一度見学してみないかという内容だった。S校長先生とは人口300人の離島の小中学校でスタッフとして働いた。極めて個性的な方で誤解を受けることも多いが、私自身はその破天荒ぶりを好ましく思っていた。
 指定された居酒屋の2階に行ってみると数名の都海研役員がいた。そこでは、衰退した会の復興に向けての話し合いが行われていたが、初めて参加した私に切実感は皆無であった。ただ、是非協力していただきたいという話になり、職名が校長であるから副会長として迎えたいと言う。あまりの展開の速さに唖然としながらも、深く考えずに引き受けることにした。
 それから半年後、今度は当時の都海研の会長から電話がかかってきた。貴方しかいないから、次期会長を引き受けてほしいと言う。正直、驚天動地の申し入れであった。私ではなく、長い間、役員として本会を支えてきたであろう人材の中から選ぶべきだと思った。と同時に、これはそうせざるを得ない深い理由があるのだろうと直感した。S先生の助言が強く影響していることも想像にかたくなかった。結局、都海研復興の特命係として会長を引き受けた。
 引き受けてみて最初に驚いたのは、年会費を納めている会員が10名しかいないことであった。これでは、まともな活動ができるはずがない。そこで、新しく事務局長になった先生にお願いして、私が作成した「年会費納入のお願い」を全都2000校近い小中学校に送付した。この年の会員数は60名。現在では80名。着実に増え続けている。
 次に驚愕したのは、本会が東京都教育委員会に認可された研究団体ではなかったことである。会長になって初めて参加した関ブロ連絡会で、各都県から大会の後援を得るという話になった。話の流れで全海研の役員の方から、「東京都は後援を得るどころか、研究会としての認可申請さえ受け入れてもらえないと聞いている」との説明があった。
 そんなはずはない…すぐに東京都教育委員会へ問い合わせるとともに、私のネットワークを駆使して都教委の求める研究であることを証明すべく、いくつもの書類を作成した。私が会長になった初年度は東京都認可の教育研究団体になる下地を作ることに、その多くを費やした。そんな父親が怖くなって、小学校3年の時に家出をする。と同時に、全海研との関係改善に着手した。二十年前まで会員数500名を超える東京都屈指の教育研究団体だった本会から、有能な役員の何人かが全海研に活躍の場を移して行った。その理由を探っていくうちに、過去、本会と全海研の間に深刻な確執があったことが明白になった。それぞれの立場で言い分が違って当然なのだが、あまりの温度差に呆然とした。そこで、過去は過去の歴史として尊重しながらも、新たな歴史を作るべく研究会名を変更することにした。イメージ戦略としてはあまり長い名称は好ましくないが、本会としてなじみ深い「都海研」の略称を残しつつ、グローバル人材の育成を目指すという新たな目標を看板に掲げた。

新生都海研、東京都海外子女教育・グローバル教育研究会の誕生である。一方で、内容面の改革も急ピッチで進めた。本会が衰退した原因の一つとして、今までの活動が会員のニーズを反映していなかったのではないかという思いがあった。そこで、@東京都と文科省の試験の前に、本会役員による模擬面接を実施する。A講演会や帰国報告会の回数を増やし、できるだけ現在の在外教育施設の生の情報が得られるようにする。B帰国者の報告を中心に約20年ぶりに研究紀要を発行する。この3つを柱に、派遣を目指す教員・国際理解教育に役立つ情報を得たいと考えている教員への研修を行った。1年2年と続けていくうちに、以前の親睦団体は文字通りの教育研究組織に生まれ変わった。
 私にとって幸運だったのは、私自身が過去の都海研を知らないために思い切ったことができることと、その独断専行を許してくれる優秀なスタッフに恵まれたこと。更にそれにも増して感謝したいのが、全海研の会長が滝多賀雄先生であったことである。滝先生には不躾にさまざまな質問をし、会運営についての意見交換をほぼ毎日のようにさせていただいた。
 そんなある日、全国大会1年前の夏、私の携帯に運命的な電話がかかってくる。液晶画面に表示された見知らぬ電話番号を訝りながら出てみると、滝会長の声だった。
 「来年度の全国大会を東京都で行うことになった。貴兄の勤務校を会場にできないか…。」
 関東ブロック大会を本校で実施することは決まっていた。しかしながら、全海研の一地方組織として純粋なブロック大会を行うのと、全国大会の中で実施するのでは全く違う。掲げるテーマ自体から再検討せざるを得ない。ましてや私は上原中学校の校長であり、生徒のための教育活動を優先しなければならない。部活動・補習授業など、東京都の中学校は夏季休業中でも活発に動いている。そこで、滝会長には、こう答えた。
 「都海研は全海研に最大限の協力をする。しかしながら、全国大会3日間を全て本校で実施することはできない。何となれば目の前にいる生徒の活躍の場を奪ってしまうことになるから。」
…何とも不遜な物言いだが、上原中校長としては当然だと考えて思い切って言った。
 滝会長は、「それでいい。全海研も都海研に協力を惜しまない。」と…。
 常日頃から、「日本の首都である東京の組織こそ活性化してほしい。それが全海研としての願いでもある。」と言っていただいている滝会長の思いがストレートに伝わってきた。人生意気に感ず。本校で全国大会最終日を実施することを即決した。ところが「言うは易し、行うは難し」とはこのことで、東京都から全国大会の後援を得るために20種の資料を送付。最初は内容不十分で不許可。再度提出してやっと許可が下りたのは今年の6月。その後は全国大会と関ブロ大会の開催趣旨の温度差を縮めるために膨大な時間と労力を費やした。
 ただ、不思議なことに、それを負担に感じたり嫌に思ったりしたことは全くない。新生都海研として、全国大会の運営の一端を担えることは大きな喜びであった。本会役員にとっても全海研の動きを目の当たりすることができて、その存在がより身近になったはずである。
 全国大会3日目(兼:関東ブロック東京大会)は、全国から160名の参加者を得て、成功裏に終わった。関東1都7県からの発表も、いずれも今日的課題である「グローバル人材の育成」を意識したものであった。そこにはかつての全海研と都海研の確執は微塵も感じられなかった。
 今後、教育現場へのICT導入が進み、タブレットPCをはじめ、さまざまな電子機器を利用した教育活動が主流になってくるはずである。しかしながら、教育の原点は人と人のつながり、結びつきにある。組織と組織の関係も例外ではない。今後の全国大会の在り方として、ブロック大会との共催も考えられてしかるべきであろう。準備をする十分な時間さえあれば、全プログラム3日間の協力体制であっても必ず実現できる。地方組織としてのコアな力と全国組織の影響力が相乗効果となり、今まで以上に内容の濃い研究大会になることを心から願っている。