国の将来を豊かにする人材育成

 

                               トロント大学名誉教授  中島 和子

                                                     (トロント補習授業校高等部・校長)

                                                            

111号巻頭言(2020年5月30日発行)

「日本語教育の推進に関する法律」の成立

 年少者の言語教育において, 平成から令和への2019年-2020年は記念すべき年である。超党派の議員連盟による「日本語教育推進法」が2019年6月に参議院を通過, 今年6月にその「基本方針」が決まる。財政的裏付けのない理念法であるが, 従来の日本語を学ぶ外国人に加えて, 外国人と日本人の両親を持つ国際結婚家庭の子女を含む海外在留邦人の子どもが新しく国の支援の対象になった。
 このような日本語教育推進法は, 今後の海外子女・帰国子女教育にどのような影響を与えるのであろうか。まず推進法の文言を見ると,「国は、海外に在留する邦人の子、海外に移住した邦人の子孫等に対する日本語教育の充実を図るため、これらの者に対する日本語教育を支援する体制の整備その他の必要な施策を講ずるものとする」(第3章第2節第19条)と記されている。そして「基本方針」の骨子素案には,この19条関係として次の3項が挙がっている(「第2回日本語教育の推進に関する法律について」配布資料6, p.7)。

(1) 海外に移住した邦人の子孫、外国人と日本人の両親を持つ子女等は, 我が国と在留国との間の交流や在留国における親日層の拡大に活躍が期待されることから,また日本をルーツに持つことを認識してもらうとの観点からも,これらの者に対する日本語教育の充実を図るため,国際交流基金等と連携し,これらの者に対する日本語教育環境の実態の把握に努め,必要な支援を実施する。
(2) 海外在留邦人学齢児童生徒に対して,て?きるた?け国内の義務教育に近い教育環境を確保する。特に在外教育施設に通う児童生徒の日本語教育の充実を図るため,教師の派遣等在外教育施設への支援を行う。
(3)中南米地域等の移住者により構成された団体の実施する日本語教育を支援するため,これらの団体か?行う日本語教育の状況の把握に努め,国際協力機構を通し?て,JICA海外協力隊を派遣する他,研修を通し?た現地教師の育成や助成金の交付を行う。

 もちろんこれらは骨子案に過ぎず,最終案がどうなるか現時点では分からないが,(1)は新しく支援の対象に加わった定住邦人児童生徒, (2)と(3)は従来の日本政府の施策を踏襲したもので, (2)は日本人学校と補習授業校, (3)は国際協力機構などが開発途上国や日系社会で行ってきた支援である。実は(2)に補習授業校が明記されているわけではないが, 一応そういうことにして論を進めたい。 

母語は5歳までに消える!
 国境を越えて家族が移動する場合, 家の中のことばは親の母語(子どもにとっては親から受け継ぐ「継承語」)であるが, 一歩家の外に出ると, 未知のことばに囲まれた生活になる。親も子も家では親の母語を使い, 外では現地語という二重言語生活が強いられる。このような状況で大人は母語を忘れたり失ったりはしないが, 子どもは, 幼ければ幼いほど母語が危険に晒される。特に保育園や幼稚園で現地語を使い始めると, 家で親が母語で話しかけても答えは現地語という状況になりかねない。親のことばを聞いて大体分かるが口から出るのは現地語という「聴解型バイリンガル」(聞くのは2言語,話すのは1言語)である。これを放置すると母語の弱体化が進むため, カナダでは, 移住者の子どもの母語は「5歳までに消える!」と言われる。
 最近海外では「定住予定」の児童生徒が「帰国予定」の数を上回り,この傾向に歯止めがかからない状況である。カナダでも同じで, トロント近隣では,この30年間に幼児のための保育園や幼児教室, 絵本を読む会やうたの会などが急増し,「定住予定」の幼児に貴重な日本語環境を与えている。親類縁者や隣近所の助けのない海外の子育てでは、このような教育機関が孤独感や疎外感から親を救い,家庭言語の悩みなどを共有する大事な場となっている。しかし、有志による零細な草の根教育活動は, 公式に認知されることはなく, 長年放置されたままである。第19条の施行によって今後は, 親同士のネットワーク, 短命な教育機関に対する運営上の助言, 機関同士の協力などによる体制の改善が期待される。
 就学前の日本語環境の改善は, 日本人学校や補習授業校の底上げにつながることは確かであり, 長年政府認可の補習授業校などで問題視されてきた「定住予定」と「帰国予定」の間の微妙な支援上の線引きなども, 国際結婚家庭子女が支援の対象となったことで解消に向かうことを期待したい。

「言語を保持するという仕事は親の手を越えたもの」

 移民大国であるカナダでは,「カナダ多文化主義法(The Canadian Multiculturalism Act)」の制定に向けて, 連邦政府が全国調査を行い, その結果得られた知見が「言語を保持するという仕事は親の手を越えたもの」(O’Brian,1976:176)である。世代間において急速に継承語が失われつつあること,この継承語の喪失が職業上の差別や教育の機会均等よりもずっと深刻な問題として各言語グループが受け止めていることが分かった。この結果を踏まえて,もし移民がカナダへ持ち込む言語・文化の保持が親の手を越えるほど困難なものであるならば, 税金を注ぎ込んで支援する必要があるということで,「カナダ多文化主義法」が制定され, 連邦政府や州政府の継承語プログラムが始まったのである。


 移民の多いオンタリオ州の継承語政策は, 同じ継承語を話す親が25人集まって地域の教育委員会にコースの設置を要請すると, 教育委員会が無償でそのコースを公教育の一部で提供する義務を負う。1993年には「継承語」から「国際語」に名称が変わったが、現在でも3万人以上の子どもが週末や放課後に国際語を学んでいる。言語の種類も多く,幼児から中2まで(初等部)ほぼ50言語,中3から高3まで(高等部)は74言語で, その中から地域と関係のある言語を学校が選んで提供している。高等部になると国際語は高校卒業のための単位にもなる。日本語の国際語コースもあり,初等部は9校, 高等部の正課としては6校, 週末・放課後コースが9校ある。

補習校教育とカナダの「国際語」教育はどこが違うか
 カナダには日本人学校はなく,補習授業校が全国に9校ある。いずれも「国際語」コースと同じように週末か放課後に開かれているが,「国際語」教育と補習校教育は, どこが異なるのであろうか。
 大きな違いはまず教育の目的である。「国際語」教育は基礎的な聞く・話す・読む・書く、つまり言語の4技能の育成である。これに対して補習校は, 年齢相応の「教科学習言語能力」(Academic Language Proficiency, ALP)を育てることに主眼を置いている。国語・算数・理科・社会などの教科の学習を通して,高度の読み書き能力を育て,日本語による思考力・判断力・表現力・文章力を養うことである。国際語の授業時間は週2.5時間, 補習校はトロント補習授業校の場合は, 週5時間である。会話力・文法力・語彙力は,家庭と補習校での日本語使用で自然に習得されると考える。
 次に大きな違いは異文化体験である。「国際語」は時間的制約のため難しいが, 補習校は入学式、始業式、卒業式などの学校行事, 日本からの派遣教員との触れ合い,日本の検定教科書の使用などによって,日本の学校文化が体験できる。この点は補習校教育の大きな利点で、カナダの移民言語集団の中でも高度なバイリテラル・バイカルチュラルを育てる点で群を抜いており,世界に誇れるユニークな取り組みと言える。
 ただ補習授業校には大きな課題もある。それは学校の規模, 教科数, 授業時間, 派遣教員の有無などで大差があるために, 一般化が難しいことである。今後は「小規模モデル」・「中規模モデル」・「大規模モデル」に分けて, 最も成果が挙がる補習校のあり方をそれぞれ探求すべきではなかろうか。この場合, 補習授業校が現地校との組み合わせによる「バイリンガル教育の一形態」であることを忘れてはならない。教師間でこの認識を共有し, 意識して2言語によるALP獲得上の悩み, アイデンティティの揺れなどについて, 生徒同士がとことん語り合う場を積極的に設けるべきであろう。

「日本語教育推進法」と母語の重要性 
 年少者の言語教育でもっとも大事なのは母語の重要性である。この点で基本理念に,「日本語教育の推進は、我が国に居住する幼児期および学齢期にある外国人等の家庭における教育等において使用される言語の重要性に配慮して行われなければならない。」(第1章第3条第7項)と明記されたことは評価に値する。もちろん先に述べたように「家庭における教育等において使用される言語」は親の母語とは限らないし,「…言語の重要性に配慮する」だけでは不十分である。実際に習い立ての現地語を使って勉強を見てやる方が子どもの成績にプラスになると思う親もいるし、またそう勧める教師もいるからである。これまでの研究では, 親自身が最も自信が持てる母語で年齢相応のやりとりをすることが, 子どもの言語発達に重要であること, 母語を守ることが家族の絆を密にし, 子どもの情緒を安定させ, 家族の一員としてのアイデンティティを育てることが分かっている。「教科学習言語能力」を一番伸ばしやすいのも母語である。
 余談になるが、昨年12月26日に長野県上田市の外国人集住都市会議で基調講演を頼まれて, 推進法の立役者であった元文科大臣の中川正治参議院議員にお会いした。そこでどうして「母語」と明記しなかったかと尋ねたところ、答えは「そろそろ母語と言ってもいいんじゃないですか...」であった。基本方針制定の段階では,ぜひ「親の母語」と明記してもらいたいものである。

現地語教育と継承語教育は車の両輪
 移民・難民・外国人労働者の受け入れとなると、その政策を支える法律が必要となる。カナダでは「移民法」と「カナダ多文化主義法」と「カナダ憲法」がそれに当たる。今後日本では,日本語教育推進法を皮切りに, 社会の統合を目指す新たな法律に挑戦することになるだろう。現地語教育と継承語教育は車の両輪である。日本語教育推進法を一つの輪とするなら, もう一つの輪は母語・継承語教育を推進する法案であろうか。現地語である日本語と同時に母語・継承語も最大限に伸ばして「バイリテラル・バイカルチュラル」に育てることは, 個人とその家族に利するだけでなく, 国の将来を豊かにする大事な人材育成である。