海外で学ぶ機会をこれからに活かそう
元キリンビール社長 松沢 幸一
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117号巻頭言(2024年7月15日発行) | ||
「海は広いな 大きいな (中略) 行ってみたいなよその国」、この童謡をつくった林柳波(作詞)・井上武士(作曲)は海なし県群馬の人で、海外への憧れを強く持っていました。外国へ行くと日本との違いが色々あることに気づきます。好奇心旺盛で感受性が鋭い小中学生なら大人以上に沢山の気づきがあるでしょう。世界各地への移動や情報入手が格段に容易になった今でも、現地の人の暮らしや考え・自然と直に触れあうことはとても貴重な経験です。それは皆さんの心に残り、人生の糧になっていくはずです。 私は群馬県東南部の農村で生まれ育ちました。戦後の貧しい時で外国のことはラジオ・テレビで見聞きする程度でした。しかし、狭い地域から外へ出てみたいと思うようになり、北海道大学(理類)へ進学しました。東北本線・青函連絡船・函館本線を乗り継ぎ、札幌まで丸一日かかりました。そこで目にした北海道の自然や人々の暮らしは関東と大きく異なり、雪解け後に訪れる春にはとても感動しました。入学してサッカーに明け暮れましたが、全国から集まった部の先輩や同期の仲間、そして、教養部の同級生との付き合いはとてもエキサイティングでした。話す言葉は少しずつ違いましたが、彼らから沢山の新しいことを学びました。理類は教養部1年半の成績と希望で理系5学部(農・理・工・薬・獣医)への進路が決まりました。小学生の頃から南極越冬観測隊への憧れを持っていたのですが、悩んだ末に農学部農芸化学科を選択しました。土壌学、作物栄養学、生物化学、農産物利用学、食品栄養学、微生物・発酵化学など人の生活に役立てる知識や技術を学び、修士課程修了後キリンビールに就職しました。最初に配属された福岡工場では品質管理や排水処理を担当し、3年目に総合研究所に異動しました。そこで外国へ目を向けるきっかけがありました。研究室長から「一度海外を見て来なさい」と勧められ、5月の連休を利用して一人でリュックを背負って20日間鉄道でドイツ・デンマーク・オーストリア・スイス・フランスを巡りました。片言の英語で宿探しや食事をするのは大変でしたが、ヨーロッパの整然とした美しい町や村、落ち着いた人々の暮らしには感銘を受けました。ビールの都ミュンヘンに留学中の会社の先輩を訪ねてドイツでビール醸造をしっかり学ぶべきだと思い立ち、帰国して直ぐにドイツ語の勉強を始めました。2年後にドイツ留学の機会を得ましたが、会社の意向で西ベルリンへ行くことになりました。ミュンヘンへ行けなかったのは残念でしたが、ドイツが東西に分断されていた時代のベルリンでしか得られない体験がありました。ミュンヘンで半年ドイツ語を学び、1978年10月中旬に車を運転して西ベルリンへ移動しました。西ドイツ(ドイツ連邦共和国)のバイエルン州と西ベルリンを結ぶトランジット・シュトラーセ(東ドイツ領内を通過できる道路)であるアウトバーンをひたすら北に向けて走ったのですが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の町や村は灰色にくすんでおり、戦禍から十分復興してないように見えました。第2次大戦後、ドイツの首都だったベルリンは連合国4ヶ国の共同管理下になり、中心部を含む東ベルリンはソ連が、西半分は米英仏が共同統治していました。東西ベルリンは高い壁と緩衝地帯で隔てられ、西ベルリンの周囲はぐるっと壁で囲まれていました。西ベルリンに200万の市民が住んでいましたが、東京23区と同じくらいの広さがあり、大きな森や湖沼・川・公園も各所にあったので普段は窮屈さを感じませんでした。西側諸国の支援があり、経済的に豊かで目抜き通りは大変賑やかでした。また、教育や音楽・芸術活動も活発でした。私はVLB(社団法人ベルリンビール試験研究・教育所、略してファー・エル・ベーと呼ぶ)で2年間を過ごしました。VLBはベルリン工科大学ビール醸造学科と相当数の教職員や施設を共有しており、一体的に運営されていました。1年目は醸造微生物の研究に携わり、後半1年はマイスター課程でビール醸造技術や工場経営に必要なこと全般を学びました。引き受け元だったカール・バッカーバウアー教授には「家でも奥さんとドイツ語で話しなさい」と言われるほど厳しく指導されましたが、この時ほど懸命に勉強したことはありません。また、ベルリンで様々な人に出会いました。微生物研究室では東ベルリンから逃げて来た若い女性が働いていましたし、マイスター課程ではドイツ人の他、アジア(インドネシア)・アフリカ(エチオピア)・中南米(グァテマラ・ブラジル)からの留学生が一緒でした。彼らの目的や背景は様々でしたが、毎日一緒なので直ぐに仲良くなり、理解しあえるようになりました。帰国後本社やビール工場で働きましたが、原料や技術関係の仕事で海外出張する機会が多くなりました。そして、ビジネスに必要な英語の勉強も始めました。40代後半の5年間(1996〜2001年)はドイツ・デュッセルドルフ市の子会社に勤務しました。子ども2人は小・中学校の最終学年を迎えるところだったので、1年間現地の日本人学校でお世話になりました。その後、東海大学付属デンマーク校へ進み、長男は高等部で3年、長女は中学・高等部で計6年学びました。学校はコペンハーゲンの南100kmの小さな港町プレストの郊外にありましたが、東海大学創始者である松前重義氏の思いによってつくられました。国語・数学などは日本の先生が、英語・デンマーク語や体育・美術・音楽・家庭科などはデンマークなどの外国人教師が教えていました。日本にいれば塾通いの毎日だったかも知れませんが、2人は自然豊かな環境でのびのびと学校生活を送りました。寄宿舎生活だったので大変なこともあったと思いますが、先生の指導や支援を受け、先輩・友人たちと助けあい暮らしたことはかけがえのない経験になったと思います。 クラークはキリスト教をベースにリベラルな全人教育をすると主張し、黒田は国がつくった農学校なのでそれでは困ると激論になったそうですが、最後は黒田が折れてクラークに全てを委ねました。マサチューセッツ農科大学とほぼ同じカリキュラムが組まれ、全ての講義と実習が英語で行われました。クラークは1年の休暇で来たので札幌には8か月半しか滞在しなかったのですが、若い学生たちに強烈な影響を与えました。
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クラークは奴隷解放宣言に共鳴して北軍の士官として戦い、戦後大学に戻っていました。彼は学生たちに自立した社会人、優れたリーダーになることを求めていました、札幌農学校には細々とした校則は不要で、「Be
gentleman 紳士たれ」だけで十分であるとし、「a
lofty ambition高邁なる志」、「Boys
be ambitious 少年よ 大志を抱け」などの言葉を残しました。彼の帰国後はウィリアム・ホイーラー、ディビット・ペンハロー、ウィリアム・ペン・ブルックスらが学校を引き継ぎました。皆クラークの教え子でしたが、自分の考えをしっかり持っていました。ホイーラーはマサチューセッツ農科大学時代に2回も学生ストライキを組織してクラーク学長に反抗したと伝えられていますが、「日本の教育は記憶中心で模倣には長けているが、自ら考え創造する力は養われてない」、「思想が伴った知識は尽きることのない資源足りうる」と語っています。彼らが共通して目指したのは単なる専門教育・職業教育ではなく、幅広い人間をつくるためのリベラルな全人教育、自ら考え理論を応用出来る能力を養う実践的な教育でした。1期生・2期生をみるとそのことがよく分かります。全国から優秀な若者が当時人口3千人の小さな町だった札幌に集まりました。彼らは旧士族だけでなく名主や商家の子弟も混じっていました。儒教中心の教育を受けていた彼らは、農学校で初めてアメリカの文化や考え方に出会ったのです。そして、自分たちがめざすべきことは何かを考え、議論しながら勉学に励みました。1期生で卒業したのは佐藤昌介、大島正健、伊藤一隆、渡瀬寅次郎ら24名中の13名でした。また、卒業できなかった11名も北海道開拓に尽くしたと伝わっています。佐藤は母校に残って、母校の継続と発展に尽くしました。彼の尽力で幾度もあった廃校の危機を乗り越えて、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学へと発展しました。佐藤は帝国大学の初代学長まで務めました。また、大島、渡瀬らは各地の学校教師となって多くの人を育て、その教え子たちがまた札幌へ行って学びました。2期生はクラーク先生には会っていませんが、後を継いでいた教師や1期生から多くのことを学びました。新渡戸稲造、内村鑑三、南鷹次郎(農学者、北海道帝国大学第2代学長)、宮部金吾(植物学・農学者)、廣井勇(土木工学者、港湾土木の父)ら様々な人材が輩出しました。新渡戸稲造は盛岡藩士の子で15歳の時札幌農学校に入学、卒業後は「I wish to be a
bridge across the Pacific 我、太平洋の懸け橋にならん」といって米国ジョンズ・ホプキンス大学に留学、その後ドイツの3つの大学で学び、博士号をとって札幌農学校教授となりました。農業経済学者として台湾で砂糖産業の振興に携わり、京都帝大・東京帝大の教授、第一高等学校校長、東京女子大学長、国際連盟次長などを務め、教育・言論・国際政治など様々な分野で活躍しました。1899年に米国で出版された「The
Soul of Japan」(後に日本語に訳され「武士道」として出版)は日本人の倫理・道徳観を欧米に紹介し、当時のセオドア・ルーズベルト大統領ら多くの米国人に深い感銘を与えました。また、彼は生涯にわたって日米の相互理解と友好関係の発展に尽力しました。札幌には米国の教会で知り合ったメアリー・エルキントン夫人を伴い、夫人が相続した実家の家政婦の遺産で貧しくて学校へ行けない人のために遠友夜学校をつくりました。学校は1944年までの50年間、札幌農学校・帝国大学の学生6百名がボランティアで教師を務め、5千人の人たちが学びました。新渡戸は「練られた品性(decency)、綽々(しゃくしゃく)たる余裕」という言葉を残しています。人はどうしても結果を出さなくてはとの意識にとらわれ、周囲に過度な負担を強いて問題を起こしがちです。私もこの言葉を心に刻み、ことにあたるよう努めています。また、「偉大なる常識人であれ」という言葉にも共感します。特定の分野を深く知るのも大事だが、「全体知を大事にしなさい」、「大局観を持てばバランスが良くなる」ということだと理解しています。自己中心の利益主義や過度の競争、部分最適の国や組織の運営では良い結果を望めないでしょう。また、対話によって粘り強く相互理解へと導く新渡戸の姿勢は分断と対立が激しい今日こそ思い起こす価値があります。内村鑑三は上州高崎藩士の家に生まれ16歳で札幌農学校に進みました(専攻は水産学)。卒業後は米国アマースト大学と神学校で学び、宗教者・文学者・平和運動家としての道を歩みました。「人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり」、「成功本位の米国に倣うべからず、誠実本位の日本に徹すべし」などの傾聴すべき言葉があります。また、彼は「後世への最大遺物 デンマルク国の話」、「代表的日本人」、「余はいかにして基督信徒になりしか」など多くの著作を残し、戦後の日本社会をリードした人々に強い影響を与えました。東海大学創立者の松前重義も若い時に内村に師事し、逓信省からドイツへ留学した際、内村の勧めでデンマークを訪ねています。そこでプロシャ(ドイツ)との戦争に敗れて荒廃していた国を教育改革(フォルケホイスコーレ国民高等教育学校)と農業振興によって復興した牧師グルンドヴィの思想と事績に触れ、帰国してから望星学塾・東海大学をつくりました。 現在の北大の理念である「フロンティア精神」、「実学の重視」、「全人教育」、「国際性の涵養」には開学時の精神が引き継がれているのです。 第2次大戦後、世界は民主主義・自由(市場)経済・グローバル化を軸に豊かで平等な社会の実現を目指してきました。製造業を中心にして発展してきた経済は近年IT・デジタル情報産業中心へとシフトしてきています。世界中で発信される膨大な情報は瞬時に世界中に伝わります。また、誰でも人類が培った知識技術を容易に手にいれ利用することが出来ますし、偽情報(フェイク)を発信し他人を欺き扇動することも出来ます。しかし、経済や科学技術が発展しても貧しい国や地域・貧しい人々は置いてきぼりにされたままです。また、様々なところで対立と分断の溝がますます拡大しています。戦後世界を形づくってきた「人権の尊重」、「自由平等」、「公平な分配」、「民主主義」、「国際協調」などの理念・規範は影が薄くなってしまいました。また、生物の生存基盤である地球環境も悪化の一途をたどっていますが、これも各国・地域の利害関係が絡みあい協調して対策に当たることが出来ていません。 人類が抱える多くの問題を改善し解決を図ることはこれからの若い世代に委ねられています。日本人学校で学ぶ皆さんが地球上には様々な考えや文化・暮らしがあることを学び、これからの世界と日本を少しでも良くするよう努めて戴きたいと願っています。。
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