日本語教育について思う

       本田技研工業()人事部教育相談室 千葉 俊治

85号巻頭言(2007年11月15日発行)

お茶の水女子大学・理学部数学科教授の藤原正彦さんが書いたエッセイ集、「祖国は国語」が出たのは大分前のことだ。新田次郎と藤原ていのご子息としても、「国家の品格」など多数の著者としても広く知られている。経歴やその作品の多さより、その衝撃的な内容はいつも多くの示唆を与え話題を提供し続けてきた。「アメリカ人は英語を話すが、全員が国際人ではない」と、日本が小学校から英語教育を始めることに警鐘を鳴らす。長い間アメリカの大学で教鞭をとっていることからも、他の人にはない説得力がある。

氏は一貫して、小学校の国語教育の重要性を強調している。「一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数」「国の危機を救うのは教育だが、その中で最も重要なのが国語だ」「国語をもっと徹底的に教えれば、読書好きな子どもが育ち、それによって教養や日本人ならではの情緒や郷愁、自然を愛する気持ちを育む」と言うほどだ。それが結果として、「目先やカネやものの豊かさ以上に大切なものがあるという大局観を養い、心を豊かにしてくれる」とも。さらに、「国語教育の量と質の充実を」とトーンが上がる。「大正時代の三分の一程度」となった国語の時数を飛躍的に増やし、「言語能力、論理的思考力、日本人としてのアイデンティティ」などをしっかり教えることが肝要で、「国語を通して、勇気、正義感、誠実、慈愛、惻隠、忍耐、愛国心、美しいものに感動する力、もののあはれなどの情緒、さらには礼節、孝行、卑怯を憎む心などの『形』を教えることも望まれる」と、力説する。惻隠、礼節、卑怯を憎むなどからは、『武士道』を書いてアメリカ人に日本人と日本文化を説いた新渡戸稲造に通じるものがあるかもしれない。

海外駐在員の悩みのひとつに子どもの日本語教育がある。日本人学校や補習授業校がない所では尚のことだ。「現地語と英語の幼稚園しかない」「日本語と同年代の子と触れる機会が少なくなる」「日本語で問いかけても、子どもは英語で応えるようになると聞いた」「漢字はどう指導したらいいか」「帰国して学校の授業についていけるか」などなど。どれも切実だ。

教育相談室には、一、二歳の子どもさんを連れた親御さんも相談に見える。私は、決まってお母さんに尋ねる。「子守唄や童謡を歌っていますか。読み聞かせはしていますか」と。子守唄を歌っているお母さんが意外に少ない。これは、私がお会いしたお母さんに限ったことではないだろう。読み聞かせはするが、昔話とお話はほとんどしない。祖父母から伝えられた「我が家」にしかない昔話・物語の抑揚とリズムは、風前の灯だ。古い世代がラジオの前で聴いた放送劇もテレビドラマやバラエティー番組に変わってしまった。私は学校に勤めていた頃から、「子守唄(童謡)、昔話(物語)、読み聞かせ(読書)は、子育ての三種の神器だ」と言い続けた。

 

の思いは今も変わらない。

脳の働きについて研究している東北大学の川島隆太教授は、「人間はふだん脳を100%使っているわけではなく、むしろ使われていない部分のほうが多い」と書いている。ところが音読をすると、他のさまざまな行動に比べ、最も多くの脳の部分が、同時に、活発に働くと。その理由を川島先生は、@文字を見る、A言葉の意味や読み方を理解する、B文字を声に出す、C自分で発した声を聞くという行動の連続が、音読だと言う。この4つの行動を一度にこなすため、黙読するよりも、脳の多くの部分が働くのだそうだ。また、「音読をするとき最も活発に動くのは、簡単な文章を読むとき」とも書いてあり、絵本やむかし話が最も適していると言えよう。

 八月のある日、九歳と五歳の子どもさんを連れて、ご両親が教育相談室を訪れた。「1年半ほど前にアメリカの現地校から国内の小学校に編入してやっと日本語と学校の勉強になれてきたのに、再び海外赴任をすることになった。今度行く所は日本人学校も補習授業校もないが、家族は帯同したい。インターナショナルスクールに通わせるが、日本語教育をどうしたらよいか」が、相談の一つだった。

私は「声を出しながら書き取る」学習法(斉藤孝明大教授)を紹介した。テキストのあるページを繰ると、上の子どもさんが落語の「寿限無」の一節をすらすら言い出した。幼稚園から小学校低学年を現地校で勉強したわが子に、日本の名作で日本語力をつけたいと考えたお母さんが、試しにやらせたのだそうだ。落語家張りのスピードと抑揚に驚いてしまった。これは川島流「脳の活性化法」の5つを同時に行ったのだから、脳のさらに多くの部分が活動したことになる。

 もの忘れは年寄りの代名詞だが、受験生ももの覚えのわるさに悩んだりする。「忘れた」というのは「思い出せなくなった」ことで、けっして脳から記憶がなくなることはない、と聞いた。上手に記憶をよみがえらせるには、@何度も繰り返す、A何かと一緒に覚える、B音読する、C書く、この4つを取り入れることが、最善ということになりそうだ。

わが国では最近、簡単に人を殺すニュースが続いている。原因はさまざまのようだが、生命の軽視と理性の欠如が気になる。感情をコントロールできるのは、理性を司る前頭前野が発達している人間だけのはず。川島先生は、前頭前野を発達させる一番の手段は音読だ、と断言している。

小学校の新指導要領では小学校低学年の国語の授業時数が増えるようだ。しかし、これで安心できるわけではない。国際化時代の英語力の有用性は痛感するが、問題は指導者と指導法だ。その基礎にもなる母語としての日本語の重要性に気づいていない人もいるようで心配になる。藤原・齋藤・川島先生にあやかって、私は、日本語の大切さを大いに語るつもりだ。