国際理解教育と外国語教育

      文部科学省・初等中等教育局・視学官  太田 光春

95号巻頭言(2012年7月30日発行)
 社会(世界)は、オーケストラに例えられる。美しいシンフォニーを奏でるためにはどのような条件が必要か。それは、異なる楽器が数多く存在することである。全員が指揮者なら音はでない。全員がフルートであったり、バイオリンであったりしたらつまらない。他の楽器と比べて出番は少ないかもしれないが、シンバルも貴重な存在だ。異なる楽器が数多く存在し、それぞれが自分の持ち味を最大限に発揮して演奏をする。その際、他の楽器の演奏にじっくり耳を傾けながら、自分が一番期待される場面で最高のパフォーマンスをする。そんな時に美しいシンフォニーが生まれる。各楽器が好き勝手に音を出すと不協和音になる。美しいシンフォニーは、演奏者相互の信頼と敬意、協調する気持ちに支えられている。
 では、シンフォニーのような美しい所産を生み出す社会(世界)はどのような社会か。オーケストラと同様、多様な存在があり、それぞれがもっとも期待されるところで自分の持ち味を最大限に発揮する。そこには、相互信頼や敬意、協調する気持ちが存在している。そんな条件が整った社会である。異なることを喜び合える社会である。それぞれの果たす役割はどれも等しく尊いものであると本気で考える社会である。「国際感覚」を備えた人は、このような意識や感覚を身に付けた人であり、国際理解教育は、このような意識や感覚を意図的に身に付けさせる教育であると言える。国際理解は、「命の重さは同じである。すべての命は等しく尊い」と確信することから始まるのである。
 外国語であれ母語であれ、言葉は何のために存在するのか。人と人をつなぐためである。できれば人と人とをWIN-WINの関係にし、それぞれを幸せな気持ちにさせるために使いたい。そのためには、聞き手や読み手に配慮した言葉遣いをする必要がある。例えば、お年寄りに話すときには大きな声でゆっくり話す。幼子に話すときは、易しい言葉を選んで話す。聞き手の場合は、話し手が気持ちよく話せるよう配慮する。例えば、相づちをうったり、笑ったり、「しっかりと聞いていますよ。私は、あなたの話を楽しんでいますよ」というメッセージが伝わるように配慮しながら聞く。このような意識や配慮は、言葉だけでは十分伝えられないことが

多い外国語では特に重要になる。外国語でコミュニケーションを図る際には、間違うことを恐れて発言を躊躇するより、たとえ表現が稚拙で誤りを含んでいたとしても、伝えたいという気持ちを大切にしながら、伝えたい内容をしっかりと伝えようとすることが大切である。外国語もやはり、人と人をつなぐ「言葉」なのだ。私は経験から以心伝心に頼らない。「言葉にしなけらば伝わらない」と考えている。だから、外国語を話す際には、文法や表現の間違いは覚悟の上で、とにかく伝えようとすることにしている。あえてRisk-takingをするのだ。相手に敬意が伝わっている限り、必ず受け入れられる、理解されると信じている。
 外国語の教室には何が必要であろうか。外国語習得の前提として、目標とする外国語に十分に触れる機会とそれを使って情報や考え、気持ちなどを伝える機会が豊富になければならない。特に、聞き返したり、自分の理解が正しいかを確認したり、平易な言葉で言い直すことを求めたりするなどしてコミュニケーションが行き詰まらないよう配慮しながら伝え合う機会が豊富になければならない。
 外国語の習得は、あいまいさに耐えながらあいまいさを減じていく営みととらえることができる。だから、聞いたり読んだりする外国語に理解できない部分があっても心配することはない。前後関係から意味を推測する力を最大限に発揮させて、概要や要点、必要な情報をつかむことができればとりあえず十分だ。詳細理解や鑑賞は次の段階である。外国語の習得には、十分慣れ親しんでいない語句や表現であっても間違えることを恐れずにあえて使う姿勢も必要である。だから、外国語の教室は「間違えることが受け入れられる環境」でなければならない。この環境は、生徒と教師の相互信頼と敬意に裏打ちされた親和関係を前提とする。この環境は、教師の側の、生徒の学習者としての可能性を信じる気持ちの強さと目標とする外国語を好きだと思う気持ちの強さを基盤にしている。言葉を媒介にして人とつながろうとする。相手の喜びを自分の喜びにする。そのような経験を通して人はコミュニケーション能力を身に付け、自己有用感や自己肯定感を高めていく。外国語教育の根幹も、自分を含めてEvery pereson matters.と思う気持ちであり、国際理解教育と同じである。