「継承語教育の時代を迎えて」 米国・プリンストン日本語学校・理事長 カルダー・淑子 |
||
98号巻頭言(2014年1月25日発行) | ||
はじめに 海外各地の補習校に「帰国を予定しない生徒」の数が増えている。補習校の数が多い北米を例にとると、東海岸や西海岸の大都市圏では全校生徒の6-7割が現地に永住予定の家庭の子どもという学校も少なくない。ヨーロッパやアジアでも同じような傾向が進んでいる。補習校とは本来帰国を前提とする駐在員の子女を対象に、国語の補助授業を行う週末の教育機関だが、近年は日本経済の低迷を受けて駐在員が減少する中で、補習校の中に現地に永住を予定する家庭の子供の割合が増えており、同時に片親が日本語を母語としない、複言語・複文化家庭の子どもも増えている。結果として教室には,家庭背景も通学目的も異なる生徒が混在し、その言語力の幅も広がっている。 外国に根を下ろし、在住国の一員として成長する若い世代に出身国の母語を伝える教育を継承語教育というが、補習校や日本人学校の中にこうした継承語教育の受け手が静かに増えてきたのが、ここ10年ほどの傾向である。その結果として、各地の在外教育機関にも従来の国内準拠の国語教育とは別種の対応が必要だという声が高まってきた。 継承語教育とは、出身国とは違う言語環境で育つ移住者の次世代に母国の言葉を保持させ、伸ばそうとする教育であり,その対象となる学習者は、移住先で生まれた子どももあれば、本人が移民世代の場合もある。継承語教育という概念は、移民の国といわれるカナダ、アメリカ、オーストラリアなどを基点に1980年代から広がっており、カナダのように移住者の持ち込む多様な言語文化を国家の財産と考え、公教育の中で継承語教育の支援をはかる国もある。日本でも、在外子女の日本語保持と、海外から日本に移り住む就労者の子どもの母国語の保持という二つの側面から、近年は継承語教育の重要性が指摘されるようになった。
また、一口にバイリンガル学習者といっても、その二言語の保持や伸張の度合いはさまざまであり、移住した年齢や在住地で過ごした年数をはじめとして、家庭や友人関係での二言語の使用状況、本やテレビといったメディアへの接触量などによっても言語の伸びには大きな違いが出る。このように個々の生徒の生活環境を反映し、言語力に個人差がきわめて大きいのが継承語学習者の特徴であり、永住型生徒のカリキュラムを考える上では、この個人差への対応が大きな課題となる。さらに継承語の使用は家庭の中の親子の会話が中心になるため、日常会話は出来ても年齢相応の読み書きが伴わない子どもも多く、その教育には教科学習や社会生活で使用される語彙の積み上げが必要になる。また外国に移住した子どもは母語の話される実社会での言語体験が少ないために、敬語のような人間関係のルールに即した言葉の使用に不慣れなことが多く、一方で、現地語の習得が学習や生活の必要に迫られて進むのに対して、継承語の習得はさほどの必要に迫られないために生徒の学習意欲が低いという所見もある。こうした継承語学習者の持つ制約は、本人や親の怠慢の結果というよりもむしろ、言語習得における環境の違いによるものだということを、学校や教師は理解しておく必要があるだろう。
|
しかし、このような傾向の指摘される継承語の学習者も,一方では国内の子どもにまさる強みを持っていることを忘れるべきではない。その一つは長年の現地校通学を通して得た高い現地語の力であり、さらに現地の学校教育を通して身に付けた教科の知識である。また心理面に目を向けると、多言語環境で育つ生徒は、在住地の価値観とともに、家庭やマイノリティー社会の生活経験を通して出身国の価値観をも内面化している場合が多く、単言語社会で育つ同世代に比べて幅の広い思考力を持つものが多い。近年日本でも重視されるようになった批判的思考力(critical thinking)を最もよく体現できるグループといえるだろう。このような学習者に大切なことは、現地の学校教育の中で習得した高い現地語の力に加えて、母語社会でも機能する読み書きを含めた継承語の力を積み上げることであり、結果として、心理面も安定し、在住地にも出身国にも貢献のできる、本来の意味での国際人に育つことが期待できる。
補習校における継承語教育とは それでは海外の補習校を考えた場合、現地に永住していく学習者の教育にはどんな配慮が必要だろうか。これまで永住型生徒のための特別クラスといえば、国内準拠の国語教育のレベルを落としたり、授業内容を減らしたりといったケースがほとんどだったが、こうしたコースは生徒の自尊心を傷つけることが多く、親からも敬遠され、長続きしないことが多かった。これに対して望ましいのは、上記のような継承語学習者の特質を踏まえた、独自の付加価値を持つコースだと思われる。まず低学年では生徒の家庭と連携し、日常会話はもとより、本の読み聞かせなどを通して母語の基盤作りを励まし、それをもとに、授業では漢字や語彙の導入、読解や作文の基礎力を伸ばす。さらに中高学年では、国語教科書の配当漢字や新出語彙を網羅するよりもむしろ、どんな教科にも使い回しのきく学習のための語彙や、実社会で多用される基本語彙を選んで習熟させ、生徒が日常生活で身に付けた基本構文にこうした語彙を組み合わせることによって、年齢相応の知的な表現が出来るよう配慮する。また国内の学校に通う機会が少ない生徒の背景を踏まえ、学習する教科を国語に限らず、社会科、理科、算数などの教科にまたがる総合的なカリキュラムを組み、プロジェクト学習を重視することも効果的と考えられる。 さらに実社会における日本語の使用経験が不足する生徒の条件を考え、ハンズオン教材や視聴覚教材を多用して疑似体験の機会を増やし、教師が一方的に話す授業を避けて生徒自身に発表の場を多く与える。生徒の個人差に対応するためには、宿題のプリントや調べ学習のテーマ選びなどにも複数の選択肢を用意し、関心や言語力に応じた選択を可能にする。現地校と補習校の双方に通学し、在住地と出身国にまたがるアイデンティティー持つ生徒には、両者をつなぐ社会問題の比較や、現地校で得た知識を補習校の授業に結びつけることも大きな魅力になる。日本語の力では制約のある生徒も、このようなカリキュラムの工夫によって年齢に応じた高度な知力を発揮することができ、学習意欲が高まることは筆者自身の経験からもいえる。複言語環境に育つ生徒ならではの強みを生かした授業をすることこそ、継承語コースの本分だと考えるべきだろう。 |